北朝鮮の金正日総書記は、37年にわたって北朝鮮を統治してきた。
その37年間を振り返った記事が朝鮮日報に載っていました。
分かりやすいので紹介します。
①権力誇示型の経済運営、餓死する住民が続出
(首都の優遇と地方の切捨て)
②「先軍」を掲げた暴圧政治で命をかけた脱北者を量産
北朝鮮が慢性的な経済・食糧難に苦しむ中で、
国境を越えて中国などに渡る住民が列を成した。
金総書記はこうした状況を打開するため、何度か改革措置を取ろうとしたが、
いつもスローガンに過ぎず、失敗を繰り返した。
09年11月には、既存の貨幣と新貨幣を100対1の比率で交換する
貨幣改革(デノミネーション)を断行したが、
コメの価格が暴騰し、住民の生活はさらに疲弊した。
③大統領夫人狙撃、ラングーン事件爆破などの政治テロ
金正日総書記が74年2月に金日成主席の後継者として登場した後、
北朝鮮は韓国政府の最高位層を狙って直接テロ攻撃を敢行した。
最初の大型テロは、韓国大統領夫人の狙撃だった。
74年8月15日、祝賀行事の会場で金日成親子の指令を受けた
在日韓国人の文世光(ムン・セグァン)は、
朴正煕(パク・チョンヒ)大統領(当時)と
陸英修(ユク・ヨンス)夫人の狙撃を試みた。
朴大統領は無事だったが、陸夫人は犯人の銃弾をよけ切れず、命を落とした。
④大韓航空機爆破事件など、民間人にまで無差別テロ
金総書記は、86年のソウル・アジア大会(86年9月20日-10月5日)と、
88年のソウル五輪(88年9月17日-10月2日)を妨害するため、
民間人に対するテロも敢行した。
⑤2度の核実験の後、核保有宣言…全世界を脅迫
金正日総書記は、金日成主席が死亡した94年から、
数百万人の餓死者を出しながら一方的に核拡散防止条約(NPT)から脱退し、
第1次核危機を招いた。
米国を中心とする韓半島(朝鮮半島)エネルギー開発機構(KEDO)は、
北朝鮮が核を放棄する代価として軽水炉を作るという
ジュネーブ合意に署名したが、金総書記は約束を破り、核開発を中断しなかった。
しかも02年10月には、ウラン濃縮計画が発覚し、第2次核危機を招いた。
金総書記は「生存権のため、核は放棄できない」
「金主席の遺訓通り、われわれは核兵器を持つ意志はない」など、
相反するような意思表示を行っていたが、
06年10月9日、咸鏡北道吉州郡豊渓里の地下核実験場で1回目の核実験を行った。
そして、およそ3年後の09年5月25日、国際社会の制止にもかかわらず、
1回目の核実験に比べ5倍も規模が大きい2回目の核実験を敢行し、
北朝鮮は核保有国だと宣言した。
核開発は、韓国はもちろん、全世界に向けた脅迫を意味するものだった。
⑥板門店のポプラ事件から哨戒艦「天安」撃沈まで、挑発の数々
以上、37年間は、北朝鮮の国民にとって悪夢としか言いようのないものですね。
その37年間を振り返った記事が朝鮮日報に載っていました。
分かりやすいので紹介します。
①権力誇示型の経済運営、餓死する住民が続出
(首都の優遇と地方の切捨て)
②「先軍」を掲げた暴圧政治で命をかけた脱北者を量産
北朝鮮が慢性的な経済・食糧難に苦しむ中で、
国境を越えて中国などに渡る住民が列を成した。
金総書記はこうした状況を打開するため、何度か改革措置を取ろうとしたが、
いつもスローガンに過ぎず、失敗を繰り返した。
09年11月には、既存の貨幣と新貨幣を100対1の比率で交換する
貨幣改革(デノミネーション)を断行したが、
コメの価格が暴騰し、住民の生活はさらに疲弊した。
③大統領夫人狙撃、ラングーン事件爆破などの政治テロ
金正日総書記が74年2月に金日成主席の後継者として登場した後、
北朝鮮は韓国政府の最高位層を狙って直接テロ攻撃を敢行した。
最初の大型テロは、韓国大統領夫人の狙撃だった。
74年8月15日、祝賀行事の会場で金日成親子の指令を受けた
在日韓国人の文世光(ムン・セグァン)は、
朴正煕(パク・チョンヒ)大統領(当時)と
陸英修(ユク・ヨンス)夫人の狙撃を試みた。
朴大統領は無事だったが、陸夫人は犯人の銃弾をよけ切れず、命を落とした。
④大韓航空機爆破事件など、民間人にまで無差別テロ
金総書記は、86年のソウル・アジア大会(86年9月20日-10月5日)と、
88年のソウル五輪(88年9月17日-10月2日)を妨害するため、
民間人に対するテロも敢行した。
⑤2度の核実験の後、核保有宣言…全世界を脅迫
金正日総書記は、金日成主席が死亡した94年から、
数百万人の餓死者を出しながら一方的に核拡散防止条約(NPT)から脱退し、
第1次核危機を招いた。
米国を中心とする韓半島(朝鮮半島)エネルギー開発機構(KEDO)は、
北朝鮮が核を放棄する代価として軽水炉を作るという
ジュネーブ合意に署名したが、金総書記は約束を破り、核開発を中断しなかった。
しかも02年10月には、ウラン濃縮計画が発覚し、第2次核危機を招いた。
金総書記は「生存権のため、核は放棄できない」
「金主席の遺訓通り、われわれは核兵器を持つ意志はない」など、
相反するような意思表示を行っていたが、
06年10月9日、咸鏡北道吉州郡豊渓里の地下核実験場で1回目の核実験を行った。
そして、およそ3年後の09年5月25日、国際社会の制止にもかかわらず、
1回目の核実験に比べ5倍も規模が大きい2回目の核実験を敢行し、
北朝鮮は核保有国だと宣言した。
核開発は、韓国はもちろん、全世界に向けた脅迫を意味するものだった。
⑥板門店のポプラ事件から哨戒艦「天安」撃沈まで、挑発の数々
以上、37年間は、北朝鮮の国民にとって悪夢としか言いようのないものですね。