最近、ここで僕がずっと述べてきた「官僚主権」を描いた興味深い本を読んだ。題名の本は、飯尾潤・政策研究大学院大学教授が中公新書から発行した著作である。この本の副題からして極めて興味深かったから購入したのである。「官僚内閣制から議院内閣制へ」。先ず、この副題と目次とを見ておけばおおよその内容がつかめる。目次はこうなっている。
1章官僚内閣制、2章省庁代表制、3章政府・与党二元体制、4章政権交代なき政党政治、5章統治機構の比較─議院内閣制と大統領制、6章議院内閣制の確立、7章政党政治の限界と意義、以上である。
さて、おおよその内容はこういうものだ。
日本の行政権は、主権者が選んだ議院に基づいた内閣総理大臣によって行使されることになっている。総理の権限は、国務大臣を自由に罷免できる事によっても分かるように、強大なものだ。それが議院内閣制の真の意味である。ところが、これがいつの間にか「官僚内閣制」へと、さらには「省庁代表制」へと変質してしまった。政権交代なき政党政治が、こういう流れを助長してきた。短期間のお飾り大臣ばかりでも選挙に負けず、政権が潰れないなかで、行政権・政治が官僚任せ、お飾りの名誉職に堕したということだ。自民党政権下でもこれへの反省、改革が着手されていたが、本来の議院内閣制に戻すべきなのだ。なお、この本は、民主党政権誕生以前の07年に発行されたものだ。
日本の主権者は官僚であり、国会・内閣を兼ねる権限を各省全ての次官が集った次官会議が実質行使してきたのだなと、改めて再認識したものである。そして、どこか一つの省でも反対する議案は決まらないというこの次官会議は省庁互助会に等しく、日本国家とはつまるところ官僚互助会であるとも、改めて思った次第だ。これでは、鳩山総理がいくら普天間を強調しても、内閣がばらばらにされ、総理の主張も吹っ飛ぶはずだ。菅直人が脱原発を叫び始めたら即首になったのも当然の成り行きだったはず。
ただ、こうなると当然、右からも左からも反省が始まる。この書では、自民党政権下で橋本内閣、小泉内閣などがこの改革に手をつけようとしたと述べられている。それ以降民主党政権下でもそのマニュフェストにより事務次官会議が、やがて元に戻され復活したとは言えいったんは廃止された。この右と左の官僚主権手直しそれぞれ、戦後の官僚流現状維持への抵抗なのでもあろうが、90年代前半の野党政権を経て、官僚の中にも抵抗派が生じていたらしい。
さて、この中でアメリカはどう位置づけられるか。僕の推察はこうだ。戦後占領体制を前提としてこの官僚互助会は成り立ってきたのだし、米外交時代時代の変化毎にごくごく少数の官僚を陰で屈服させてその意思を通してきたのだろうな、と。最近のアメリカは、その意思貫徹に際して暗殺でも戦争でも辞さないのだから、決定的な時の官僚脅迫などは当然の手段なのであって、そのための官僚私生活洗いなどにも抜かりないことでもあろう、と。ドル体制終焉が噂されるアメリカの苦境の中では、これらの画策もどんどん激しさを増して行くに違いないとも。情報収集機関エシュロンもフル稼働というところだろう。
などなど、いろんな事を考え込んでいたものだ。