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小説  道連れたち(その3)   文科系

2014年12月06日 09時14分10秒 | 文芸作品
 小学枚五年の春の夕方、団地の花畑のあちこちで毎日のように見かける初老の男に、長い逡巡の未に声をかけた。その場の花のことが挨拶代わりに誰もの口にのぼり、その度に中背痩身のこの男が、多めの白髪を揺らしてなにか頼りなげに返すほほ笑み。遠くまた近くからさりげなくそれを見、聴いていて、心が開いていったような気がした。満開のレンギョウとかの木々が後ろにぎっしりと並び、薄紫のスミレがその前の地面全体をおおって、その間から白が混じったピンクのチューリップが立ちのぞく、六畳一間ほどの横に長い花壇の前が舞台であった。
「すごくきれいだねえ。おじさんが作ったの?」
「ありがとう。おじさんの奥さんがほとんどやったんですよ、おじさんも少しは手伝いましたけどね」
「チューリップの色がすきだしぃ、スミレも変わった色だねえ」
「うん。── 植えた奥さんの方は、もう死んじゃいましたけどね」
 こんなやり取りをきっかけに、ぼつぼつと思い付きつつ問う恒秋、丁寧に応える幸田。その日それがいつの間にか、幸田の家に彼が招かれるという成り行きになったのだそうだ。
 幸田の家は惨状だった。畳や床には、かなり前の葬式の名残らしい物が散らばり、コップ、茶碗、コーヒーやジュースの缶そしてインスタント食品のスチロール容器、割り箸なども転がっている。これは一か所に集めてあるが、薄黒く汚れた下着を中心とした衣類の類い。郵便物はほとんど封も切られずに机の一角からこぼれ落ちている。恒秋は、幸田が彼にしてはきびきびと開けてくれた机の脇の空間にやっと腰を下ろし、あからさまにただ眺めた。
「汚くて悪いですね。何にもする気がおこらないものですから」
 ここまで幸田の語り口に何か引き込まれてきた恒秋に、こんな連想が浮かぶ。
〈母さんのように、外で待っててもらってばたばた片付けるんじゃなく、僕を入れた。こんな凄い所なのに〉
「おじさん、一緒に片付けようか?」
 ふっとそんな声が出て、隣室の流しに立っている幸田の横へ走り、食器洗いを手伝い始める。
「君、上手なんですねぇ?」
「上手ってことないよ。いつも父さんとやってるだけ」
「父さんが教えるんですか?」
「教えるってことないよ、こんなこと。母さんが看護婦だしぃ、このごろまた、試験勉強で忙しいみたいだしぃ」
「看護婦さんって、試験があるんですか?」
「病院で検査やってる父さんだってあるよ。おじさんは、仕事なにやってるの?」
「今は定年退職。前は新幹線作ってたんですけどね」
「すごい! 大きな工場だねぇ?」
「工場も行くけどね、そこでどんなふうに作ってもらうかという、設計の研究する所」
「じゃあ試験あるでしょう?」
「試験、………はないよ。おじさんが良くできるからかなぁ?」
「ふーん、よく勉強したんだ」
「うん、学生の時からね。おじさん、ほんとうによく勉強したよ」
「じゃ、いい大学入ったんだ」
「うん。トウダイって知ってる?」
「すっごい! それで、新幹線の設計なんて、ほんとにすごいねぇ」
「すごくないよ。今はこんなぐちゃぐちゃな所で寝て、起きてる。何にもできない人だと奥さんに言われてたけど、奥さんがいなくなってそれがほんとによく分かったという、だめな人ですよ」
「花畑作りは上手だよ」
「あれはね、定年退職の頃から奥さんがほんとに一生懸命教えてくれて、僕も一生懸命習ったんです。毎日、あれだけやってました。今はもっと、花畑だになっちゃいましたけどね。『箸は?』と訊きそうになって、『自分で持ってきてよ』とも言われないんだと、はっと気付く。それで、そこら辺のを何回も使っちゃう」

 この日から二人の花畑作りを中心に置いた付き合いが始まり、幸田はいつも、恒秋をただならぬ態度で歓待したらしい。対する恒秋の態度はと言えば、こんな言葉で語られたのだった。
「幸田さん所に通うのが、なんかすごく好きだなーみたいな気持にどんどんなってきたんだよ」
 そしてその夏、作業途中のにわか雨を、団地集会所の幅広い軒先に避けたある夕方。しゃがみ込んだ恒秋の目の前に、一つの光景があった。アリが緑色のコガネムシに群がり、断続的に動かしている。それも気付かないほどにほんの僅かずつ。鈍く光る羽根覆いがひしゃげて傾いたその甲虫は、じわっじわっと黙って引かれていく。この光景をあれこれと暫く観察していた恒秋の耳元近くに、不意に幸田のつぶやきが響いた。
「うちの奥さんも、私たちも、結局このムシとおんなじようなもんですかねぇ」
〈人間とムシはちがうでしょう〉、一瞬、そう返しかけて、詰まってしまった恒秋。〈コガネムシでも、一人ぼっちは寂しいだろうし、嫌なことは嫌なんだろう〉と考え付いたのである。幸田を振り返って素直にたずねてみた。
「どっか違う所もあるんでしょう?」
 幸田は柔らかい顔を恒秋に向け、ゆっくりと虫に戻しながら、応えた。
「自分が死ぬことを思い出しながら日々生きているのは、人間だけじゃないですかねぇ。だから人間は虫より寂しがりやなんだ。この寂しさが強い人は、虫よりは多少頑張って生きてみる。奥さんが僕と一緒に花畑をやろうとしたのは、多分そういうことですよ。でも、気付いてみたら、日々こんなにもやりたいことがないもんですかねぇ?」
 この辺以降のその日の会話は、恒秋の記憶から消え去っているらしい。ほとんど幸田の独白だったようだが。ただこの日の独白は、この人と花畑をやり続けていきたいという強い印象だけを、恒秋の記憶の中に残したのだそうだ。

 話がさらに続き一つの段落を迎えたとき、恒秋の声の調子が変わって、こんな解説が加えられた。
 幸田とのこれらの会話などは、当時の自分にどれだけ分かっていただろうか。しかし人は、成長期の自分にとって全く新しい世界と親しく接触したものを、十分には分からないからこそ覚えているということもあるものだ。また、そういう記憶が以降に、意外なほど己の世界を押し広げていくということもある。

 朝子の方はと言えばその前後から、恒秋と幸田のつながり以上に、幸田夫婦に照らし合わせて様々な夫婦の形をあれこれと思い描いていた。職業の中で出会ったいろんな「配偶者の死」を思い起こしながら。
 たしか病院の統計にあったけれど、妻が亡くなった後の夫のストレスは日本の場合、凄く大きいものらしい。他のどんな国の夫たちのストレスと比較しても。逆に、夫が亡くなった時の日本の妻の方は、平均すればそれほどでもないという。そして幸田の花畑作りは、そのストレスの発散場所になったようだし、この唯一の発散場所を彼に与えたのがまた彼の亡妻である。それも多年月の努力を重ねた末のことだった。別の新聞統計で「女七十代以上で、夫と暮らしていたいと応える人は僅か三人に一人」で、「妻と暮らしていたいという夫は三人に二人」に比べて異常に少ないとあったのも思い出す。幸田の妻ももちろんこちらに入るのだろう。その妻の側が努力して二人で楽しむものをやっと作り上げたまさにその頃に、その妻が亡くなった。幸田はその唯一の楽しみを今度は一人で追い求め続けるしか、やることがなかったようだ。そこに、恒秋が加わつてきた。「すごく好きだなーみたいな気持にどんどんなってきた」と恒秋が述懐したのは、こういったこと全てが関わった成り行きだったのではないか。恒秋と幸田がこの様相をどれだけ意識していたかは分からない。しかし、短くはあったがただならぬ感じを抱かせる二人の歴史は、こんな背景をお互いに少しずつ認めあうことによってどんどん深められていったものだったのではないのか?
「ツネ君、ちょっとないようなことができたんだねぇ」
 二人それぞれの暫くの沈黙の後、朝子が溜め息のように声を漏らした。
「うん、ほんとにそう思う。最後の頃、幸田さん、こんなことも言ってた。
『歳を取ったら全てを失っていく。仕事も、体力も、ものを感じる感性も、さらには視覚や聴覚等の五感でさえも。このように何かを亡くしたと思い知る度に、人は己の死を思う寂しい時を持つ。そんな時、若い頃から所有しまたは関わった全てのものを阿吽の呼吸で語り合える相手は配偶者しかいない。この語り合いに、愛憎両様の形や、あたかも空気に対するように意識されない形があるにしても。こういう真実の大切さを相手の死後にしか気付かないということは、またなんと愚かなことであろうか。この事実に僕が打ちのめされていた頃、僕は君に出会った。これから大人に育っていくという君を与えられた。………本当に幸せなことだった。ありがとう』。」
「それって、遺言の文章でしょう、私にも見せてよ?」
「いや、幸田さんのいたずらかも知れないんだけど、誰か一人にしか見せちゃいけないんだって」
 朝子はすぐに、咲枚の人懐っこいほほ笑みを思い浮かべた。すると、恒秋の少し慌てた言葉が続く。「まだ、誰にも見せてないんだ。母さんにだってもちろん見せたいんだよ。男みたいな人だとは思うけど、幸田さん流の言い方をすれば、僕の人生にとって母さんと僕だけのものは山ほどある」
〈咲枚に見せるのが良い〉、已にそう言い聞かせている自分を、朝子は認めた。自分には恒男がいると、改めて感じていたからかもしれない。ただ、俊司ともまだやめられはしないだろうとふっと考え込んでいる自分にも、気付いたのだが。

 大きい南窓にも、秋の陽が暮れ姶めている。朝子にとっても、あっという間の一日であった。

(終わり)  2000年1月、所属同人誌から
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