九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

朝鮮日報より   らくせき

2014年12月01日 10時17分13秒 | Weblog
日本の読売新聞系列の英字紙「デイリー・ヨミウリ」(現ジャパン・ニューズ)が過去に日本軍の淫売窟(原文ママ)に連行された女性について、「sex slave(性奴隷)」などという表現を使用したのは不適切だったと謝罪したことについて、米紙ニューヨーク・タイムズ(NYT)は「韓中の政府や歴史家の見解に挑戦するものだ」と評した。

 NYTは読売が「日本の政府と軍隊が強圧的に連行したというのは客観的事実ではない」との立場を示したと説明した。読売は謝罪文を英字紙だけでなく読売新聞にも掲載した。

 NYTは「読売の謝罪は過去20年間、性奴隷という用語を使用したことが、日本の第2次世界大戦中の行為に対する否定的な描写に見えるのを修正する意図がある」と分析した。

(略)

 NYTは第2次大戦の歴史をめぐる日本国内の論争が、安倍晋三首相が2012年に就任して以降エスカレートし、安倍首相が日本の過去の歴史に対するプライドを回復することを自身の政治勢力の主なテーマにしていると指摘した。また、安倍氏が軍の淫売窟に対する朝日の報道を問題視したほか、公共放送NHKに監督委員会を新設するなど、自身の信念に反するメディアに干渉してきた事実も伝えた。

 NYTは読売新聞の渡辺恒雄会長が安倍首相と近い関係にあり、これまで安倍首相を強力に支援してきたことから、批判論者が読売の謝罪を「罪科を認めたように偽装しようとする政治的意図がある」と受け止めているとした。

(略)

渡邊さんは、安倍さん応援団のマスコミ団長さんかな?



 
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新聞の片隅に載ったニュースから(178)    大西五郎

2014年12月01日 09時42分48秒 | Weblog
外国特派員協会で自民が会見見送り 「責任放棄」と批判(14.11.30 中日新聞)

【パリ=共同】フランス公共ラジオは、自民党が衆院選に絡み日本外国特派員協会で記者会見することを見送ったと報じ、経済大国の与党として「責任放棄」だと批判する同協会側の声を紹介した。
自民党側は、時間がないことが会見見送りの理由だと説明。同ラジオは「自民党幹部たちは、日本人記者よりも手厳しいといわれる外国の報道陣を避けたがっている」との疑念が特派員らの間に広がっていると指摘した。同協会で記者会見の企画運営を担当するジャーナリストのデビッド・マクニール氏は「自民党として質問を受ける責任の放棄だ」と指摘。選挙の際に自民党が同協会で記者会見をしなかったことは「記憶がない」とした上で「がっかりしている」と話した。

□□――――――――――――――――――――――――――――――――――――――□

 前の日の朝日新聞に「首相ピリピリ TV局に『声選んでいる』■個人の発言批判」という記事がありました。それによりますと衆院解散を宣言した18日夜、首相はTBS系の「NEWS23」に生出演しました。「アベノミクスは感じていない。大企業しかわからへんのちゃう」という景気回復についてのインタビューが流れると、スタジオの首相がキャスターに向って「街の声ですから、選んでおられると思いますよ」「事実6割の企業が賃上げしているんですから。これ全然、声反映されていませんが。おかしいじゃないですか」と云いました。
またこの記事は、衆院選を前に、安倍晋三首相や自民党が、メディアの報道やネットの発信に神経をとがらせているとして、自民党は20日付けで、NHKや在京民放TV5局に、選挙報道の公平中立を求める文書を送付。街頭インタビューについても「公平中立、公正を期していただきたい」などと、番組の構成にも「配慮」を求めた、としています。
安倍首相は批判されることを極端に嫌う性格のようです。国会の質疑などでも、野党が首相の政治手法や政策を批判しますと、俗に云う“色をなして”反論する光景をよく視ます。
また安倍首相は「内閣の責任者は私です」。「総理大臣としての私が決めます」というような発言をよくします。それでいて、官邸での毎日の記者団の「ぶら下がりインタビュー」には応じていません
閣議が行なわれる日のテレビのニュースで、閣議前に控え室に閣僚が揃い首相を待っていると、入室してきた安倍首相はいきなり椅子に座る映像が流れます。閣僚たちは首相の入室を起立して頭を下げて迎えますが、首相は椅子の前で立ち止まって閣僚を見回し、軽く会釈してから椅子に座ればいいのにと、「首相は君主になったつもりなんだろうか」といつも思います。
首相を含め与党の各部門の責任者は「オレ達が政治をしてやっているのだ」ではなく、報道陣の取材にもっと頻繁に応じ、やろうとしている政治について国民に説明すべきです。その仲立ちをするのが報道陣です。外国へ向けての発信は外国特派員を通じて行なうのです。「きびしい質問にたじろがず」に、会見の機会を喜んだ方がいいと思います。
                                                  大西 五郎
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小説 「歩く」 (後編)   文科系

2014年12月01日 00時12分46秒 | 文芸作品
 同じ日二十時過ぎ、森本に、定例コースを終えて部屋に入っていく二人を開け放たれたドアの外やや遠くから見る機会が訪れた。森本はその場で仕事らしきものを見つけて座り込み、さりげない観察を始める。
 律子がまずベッドの端に座る。次いで雅実がその前に立ち自分の両手をつかませて、例の「キヲツケ」をやらせている。そのうちの何回かは、立った時の律子の右膝を雅実が右手で伸ばす。「きゅっと真っ直ぐ!」、いちいちそんな言葉が森本にも届いて来る。
 起立の後は、伝い歩きによるトイレ行、入れ歯を外してのうがい、パジャマへの着替えへと続いた。雅実はほとんど手を出さずに、ただ見つめている。森本も改めてあきれるほどに一つ一つの行為がゆっくりで、延々と続いてゆく。トイレなどは中でうたた寝でもしているのではないかと、いぶかられるほどの長さだ。
 そして着替えは、まず腕を袖に通した上着の前で指が何度も何度も行き来している。ボタンの掛け違えなどで律子自身が困ってしまった経験が、後遺症となって残っているようだ。近視力がおぼつかなく、ボタン掛けを指の触覚に頼らねばならぬことの結果らしい。やせ細って、かさかさで、右手に麻痺があるはずの指では、この触覚頼りも随分心許ないだろう、そう森本は見て取った。
 次に、パジャマのズボンの方がまた、大仕事である。脱ぐのとはくのとで二回、座ったベッドから柵を杖にして立ち上がらねばならない。はくときで言えば、座ったまま両脚をそれに通して、それからおもむろに立ち上がり、両手を交互に使ってゴムの部分を腰上までたくし上げていくというやり方だ。その間、残りの片手を震わせながら突っ張って、直立姿勢を支え続けねばならぬというわけである。こういった悪戦苦闘の着替えが結局、正味二十五分も続いたろうか。
 ゆったり座ってこれら全てを見つめていた雅実が、着替えが終わった瞬間に拍手を贈る。褒めていると言うよりも、できたことを喜んでいるという様子だ。律子は大きく肩を下ろして、ニソッとした笑いを返して見せた。
〈ほんとに、残った自立の力を大切にしようというやり方だ。僕らのような仕事の流れでの付き合いなら、とてもここまでは待てないね。そうしてみると毎日の『回廊一周』は、こういう自立の力を維持していく一番の基礎になると、十分知ってやってたんだよ。たしかに、これができる間は寝たきりにもならないし。それにしても律子さん、なんであんなに頑張れるんだろう。このエネルギーも、息子さんのあの気長さも、二人ながらこんな家族はちょっと見たことがないなぁ〉
 森本は、初めて意識して観察したこの結果に、ゆっくりと幾度かうなづいていた。しかしすぐ後に、彼の肝腎の疑問はこう続いていく。
〈それにしても、自立を大切にするにしても、それが、あの熱心さの訳ということじゃないでしょう?看る側か看られる側かどっちかが諦めちゃう場合だってあるはずだし?〉
 雅実が帰る素振りを見せた。ベッドに横向きに寝ていた律子が、不自由な右手をひらひらさせながら差し出し、いっぱいの笑顔を贈る。感謝のしるしのようだ。すると、雅実がその手を握り返して、握手となった。最近の帰りの儀式らしい。以前の『さよなら』の儀式は、律子が壁に沿って伝い歩きで部屋の外まで出て、そこで雅実がエレベーターまで歩くのを見送り、手を振って別れ合うというものだったはずだ。彼女は来訪者全てに、そうしていたものだ。
 

 森本が次に佐伯親子を観察するチャンスは、その数日後にやって来た。その日勤務が終わった十九時頃、二人が屋上にいると同僚に聞いて、行ってみることにした。親子がそこでこの頃よく何か「パーティー」をやっているらしいと小耳にはさんだからである。
 屋上エレベータールームの物陰で初めに目に入ってきた光景はこんなものだった。
 夕日が真西にあり二人が東のベンチに座っているとしたら、森本の位置はさしづめ南西というところだろう。既に幾分暗くなった朱一色の光景の中の二十メートルほど先に、遮る物なく親子が見えた。ハーモニカの音が響いている。雅実が吹いているのだ。風が遠い西の山脈から運ばれて来て、律子の細い白髪を絶えずふるわせている。外は意外に涼しいらしい。小さな木製のテーブルには、飲み物の缶がのっている。一本はビールのようで、その脇にあるのはピーナッツだろうか。
 ハーモニカの曲名は覚えていないが、旋律は森本にも確かに聞き覚えがある。それも、学校の音楽の授業で習ったものだ。吹奏二回目に入ったところで、森本は一番の歌詞を口ずさんでみた。律子が目をつぶり曲に合わせてアゴを出し入れしているのが見える、その動きに合わせながら。

 ”いくとせ故郷 来てみれば
   咲く花 鳴く鳥 そよぐ風
   門辺の小川のささやきも
   慣れにし昔に変わらねど
   荒れたる我が家に
   住む人 絶えてなく”
   (作者注 イギリスの歌。日本曲名は「故郷の廃家」。犬童球渓作詞)

 曲が終わって、目を開けた律子が雅実にほほ笑む。職員に人気のある、人の警戒心が解けていくようなあの「可愛い笑い顔」である。いや、あれよりもくつろいだ、小さなほほ笑みと言うべきだろう。それから、雅実がビールらしきものを飲むと、律子が真似をするように缶をゆっくりとあおる。雅実がピーナッツを口に放り込むと、律子もそれをつまんで口に運ぶ。また、西の方から風が来たらしく、二人の髪が揺れ、細められた視線が風上に向けられる。今日二人はもう幾度夕日を見つめたのだろうか。
〈今の律子さんには、日々の楽しみの全てが雅実さんなんだ。彼の来訪自身が、凄く大きい楽しみというだけじゃなくて〉
 森本が、様々な律子の言動の記憶をたどりつつ、見つけた感じをふっと表してみた言葉である。一人では歩けない。字も読めない。テレビ番組も、言葉が速すぎてまず分かりはしないだろう。他人との交歓でさえ普通のやり方ではおよそ不可能で、彼女はもうほとんど諦めかけているようだ。そんな律子にも、こういう楽しみがあった。
 夕風、夕日、飲み物、ハーモニカ、そして、これら全てを彼女とともにする雅実。今、森本には、目の前の二人のこれまでがほとんど解きほぐされて来るような気がしていた。

「生きていてくれるだけでよい」とは、ここでもよく聞く言葉である。しかしその気持ちがこういう相手にきちんと伝わるには、大変な行為の積み重ねが必要とされよう。これだけの弱者は嫌でもひねくれてしまうのが普通ではないか。「こんなじゃ、生きていても仕方ないねぇ」、よく呟かれる言葉だ。けれども、周囲の他人が無意識にせよこの言葉を真に受けた体で現に振る舞うとしたら、それはもう論外というものではないだろうか。本人が意志を持ってここまで生き続けてきたという事実が眼前にあるのだから。
 こんな言葉や、それらへの日頃の疑問、抵抗を改めて反芻してみながら、森本は目の前にある夕焼けの中へゆっくりと歩き出していった。
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