「大正の育メン」 M・Aさんの作品です
小正月過ぎて、この冬一番の寒波襲来との気象予報をニュースで聞いた深夜だった。父が亡くなり、早朝急いで実家に着いた頃はまだ冷たい雨だった。日頃使ってない仏間は、暖房があっても底冷えがする。
二日の通夜を経て葬儀となった日は、名古屋で九センチの積雪。葬儀場は近くなので私の家族は歩いて行けたが、埼玉の姪や東京から来た甥はほとんど葬儀に間に合わず、親族中心のわずかな人で送ることになった。
施設で四年以上過ごした認知症の父は、老衰で享年九十一歳だったので、六十六歳で亡くなった母のことを思えば大往生だと思う。
だが、これから色々と始まる。葬儀に伴う事務処理はなんとか終わっても、認知症だった父の後見人で喪主を務めた弟に、経済的基盤が少ないのである。もちろん、家や賃貸住宅の収入などはあるが、ほとんどが父名義のものなのだ。ある程度は借り入れで相続減税対策もしたが、父の認知症から年月が経ち、遺言もなくて父名義のままで逝ってしまった。つまり、終活がなかった。
考えてみると、六十代後半の私も、身体の機能や気力、記憶が極端に衰えていることは自覚していても、いざというと父と少しも変わらず終活も何もしていないのに気づく。
それにしても、ほとんど病気もせずに長寿で往生した父のことを改めて考えると、大正生まれなのに育メンだったことに気付いた。核家族で母は趣味も多く、旅行にも出かけて留守が多かったけど、父はその母を評価していた。
幼いとき、私と妹を風呂に入れるのも、夜間屋外のトイレに連れて行くのも父だった。母が旅などで不在のときは、「味噌汁できたし、洗濯ものも干したぞ」と起こしに来た父。今の時代でこそ育メンは当たり前だが、大正生まれの父はすでに育メンだった。なので、母が亡くなっても、日常生活は困らなかった。
ともすれば母と比べて、趣味も少なくて平々凡々と暮らしてきた人だと思ってきたが、子煩悩で家族思いの人であった。初孫である長男の送迎を往復二時間以上かけて年に何度してくれたことだろう。市の水道局で働き、私たち子ども三人が大学を卒業する頃、「わしゃ、幸せだよ」と満面の笑みを浮かべて他人に話せるなんて……。
私にそうした感謝の気持ちはあるのか。趣味三昧でいつも忙しがって疲れている人生のどこに、父の人生と比較できるものがあるというのだろうか。価値観の違いだろう。