今年はとうとう大学までが、その卒業式、入学式における国旗、国歌のことが問題になった。僕は無政府主義者ではないけど、右翼、保守派の方々の国家崇拝行動、その動機である崇拝感情のことは、いつも笑える。アメリカの軍隊映画に度々出てくる国家、国旗への「最敬礼」というのも同じだ。嘘理由ででっち上げたイラク戦争、その国旗、国歌に国民の尊崇を強制するようなものだろうし、太平洋戦争を聖戦と呼ばせてその先頭に立てた旭日旗への忠誠とともに進軍していったようなもんだ。そういう理屈に笑えるということと同じである。
ちなみに、公務員、役人が、国民全体に最敬礼する理屈なら、まだ分かるけど、福島処理に見える官僚の不始末や、警察や議員の不祥事の多さやなどを観れば、彼らの公僕精神の方をこそ、逆に叩き直したいほど。だからこそ、彼らのこの「国家尊崇要求」にはさらにさらに笑えるばかりなのだが、この僕なりの原理的理由は、さらに次の通り。
近代社会契約説によれば、国家って一種の契約書のようなものにすぎない。主人公である国民が、政府に「このようにせよ」と命じた命令。そういう契約書。それをその主人である国民に「尊崇せよ」と誰が命じることができるのか。そんなことは、原理的に成り立つはずがないことなのだ。ましてや、政府や文部大臣などがそんな「尊崇」の音頭を取る権限など原理的に存在しないはずである。したがって、こうなる。そういう理屈を通したい人々って、この得体の知れない「尊崇」があると都合の良い人たち。それでもって何となく国民を押さえて自分らが上に立つようにして、何かその言う事を聞かせたい政治家やその周辺の人たち。国家主義って、こういう人種が人為的に創りたいものなのだろう。
そんな彼らが、どうして「(憲法には)権利ばかりが書いてあり、義務がない」とかを国民に改めて強調することが出来るのか。自民党憲法草案や、櫻井よしこの論議、その背景思想はここで破綻している。近代国家になっても、日本書紀のような国家(神話的)尊崇が都合がよいと振る舞っているようにしか、僕には見えないのである。甘利にせよ安倍にせよその他誰にせよ、政治家や官僚らの方が余程義務を忘れ、あるいは嘘ばかりついている。それを隠すために、国家尊崇を要求しているようにしか見えない。