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ベルギー戦プレビュー②デブライネさん怒るw 1970

2017年11月13日 19時13分07秒 | Weblog
この前のベルギー、メキシコ戦見て、あ~こりゃベルギーのDFも酷いなと思った矢先、今をときめくプレミアの大スターデブライネさんが戦術に駄目出ししました 笑

要するに
「3ー5ー2のシステムで守る時は5バックライトなるのはいいけどさ~DFラインがズルズル下がりすぎて真ん中にポッカリ穴が開くんだよ。あんなんじゃボール獲ったって俺達前のプレーヤーと距離がありすぎて攻めが単調になるんだよ。守備メインじゃ勝てないんだよ。こんだけタレントが居るのに何考えてんだよ、監督何とかしろ」
と。
ま、早い話が
「ペップみたいにやってくれる?それだけのタレント揃ってるんだけど」
と、こういうことですね 笑

デブライネさん言う通り、怪我人続出でDFメンバー全員2軍のベルギーは、メキシコにボールを回され、左右に振られても付いていけずボールウォッチばかり。いいように3点失った。
前のプレーヤーのストレスが溜まるのはよく分かる。
しかし、替わりのDFも居ないのでシステムを変えようにも変えられないのも事実。

日本戦に向け何か変更するのか?ちょっと分からないが。

日本からすると今のベルギーはやりやすい相手にはなる。
おじいちゃんが堅守速攻を掲げるならば、少なくともあの程度のDF相手に攻撃が出来ないのならば戦術は変えなきゃ本番はとても戦えない。
前は超一流、後ろはザルなんだから。間違いなく嵌めやすい相手だよ。

仮にシステムをいじってきたとしても、急造のシステムでDFは同じだから戦いやすいことに変わりはない。

というわけで、メキシコ並に3点とは言わないが2点は獲りましょう。
おじいちゃんの腕のみせどころ。
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ハリルジャパン(130) ワールドカップ奮戦記①  文科系 

2017年11月13日 11時38分14秒 | スポーツ
 今回からここ3回のワールドカップの戦評、拙稿を再掲させていただきます。すべて、それぞれの当時にここに載せたものです。明日、ベルギー戦があったりするので、中断することになったりはしますが、ブラジル大会までを再掲していきます。


『 ワールドカップ奮戦記① 2006年ドイツワールドカップ  文科系 2006年06月28日

 まず三ゲームそれぞれの概括である。
 オーストラリア戦は完全な負け試合だった。最後九分間の三点を差し引いても、全ての数値がそれを示している。ボール保持率、シュート数(六対二十)、枠内シュート数(二対十一)、パス総数(二六九対三六〇)、ペナルティーエリア進入数(十対二九)などなど。これらは全て毎日新聞掲載の数字である。ただ、運良く取れた点を守って勝つという道はあったのかも知れない。それにしても、最後十五分間に日本があのように攻めに出るなら、前と後が意思一致して一緒に攻めねばならなかった。あのように前線と後陣が間延びして攻めては、ボールを奪われて逆襲にあいやすく、危ないこと甚だしい。
 クロアチア戦は先に見たような数字の上では勝ち試合だったが、枠内シュートが五対六と互角なのだから、勝ちきれなかったというところだろう。オーストラリア戦とは全く違って、攻守両方を繋ぐ役割を担う中田が前線に行けて、彼がマン・オブ・ザ・マッチになったのが勝勢の証拠だ。中田が、予選リーグ敗退の十六チームから大会役員選出ベストイレブンに日本人ではただ一人選ばれたのは、このマン・オブ・ザ・マッチが大きかったと、僕は思っている。その中田も「勝ちきれなかったゲームだった」と語った。
 ブラジル戦は二点差をつけねばならないのだから、あーなってもしかたない。普通なら一点取ったらちょっと守りに入る時点でも、攻めに出て行かねばならなかったのだ。精一杯攻めて負けたというところだろう。

 さて、このチームはゲームの好不調にムラがあり過ぎるとは、前からテストマッチで示されていたことだった。攻めるときに後陣が引き気味になると、日本の「走る長所」が「無駄走り」にされるということについて前後陣間で論争があって、最後まで意見が一致しなかった。不一致なままで下がり気味という事実は残されてしまった。これがムラの正体だ。引いていてロングボールで攻めるというチームにはこの欠点を突かれるのである。それについてジーコは最後まで、選手の自主的論争を微笑みつつ見守っていた。第一戦ではそれが裏目に出てしまい、第二戦でジーコが初めて監督強権を発動した。四バックにしてDFラインを上げさせたのである。それによって、中田の守備が第一戦より劇的に減って、ムラのある日本の「勝ちパターン」となったのだった。
 さて、強権発動を第一戦にやったら確かにこういう結果にはならなかったと思う。が、その方が良かったかというと僕はそうは思わない。監督抜きの選手間の自主的論争というのが、日本スポーツ界の歴史に最も欠けていたものだったのだから。選手二三人が本戦の一つまで犠牲にしてその事を学んだのだ。結果的にはジーコがそうさせたということになる。日本人監督だったら論争を黙って見ているなんてことは絶対にないし、とっくに強権発動もしていたはずだ。しかし強権で隠した弱点はゲーム中のちょっとした要素からずるずると露出させられる時が必ず来る。結局、ジーコがその日本全体の弱点を骨身にしみるように教えてくれたということになる。
 日本が目指すべきは「なるべく接触を避けるパスサッカー。そのための組織と、死ぬ気の走力」、「組織も死ぬ気の走力も選手の自主的判断からしか育たない」、こういうことなのだと思う。これらは中田が、日本サッカーの長所として言い続けてきたことである。

 それにしても、あの第一戦、ムラがある日本チームにしても最悪のゲームぶり!あれは、一体どういうことなのか。ジーコにも全く意外だったようだ。「終盤の、あんなに疲れ切った選手たちを見たのは初めてだ」と語っていたのだから。このジーコの表現にこそ、あのゲームの「敗因」が潜んでいると思う。
 あのゲーム序盤のオーストラリア、体当たりが凄まじかった。それに対して通常のゲームのようには審判がファールを多く取ってくれなかった。特に中村と中田がちょっとパスの出し所を探していると、すぐにドカーンと来た。また、二人がボールを持ったときは、受け手全員にぴったりマークが付いて、蓋をされていた。二人があんなにパスの出し所を探していたのは見たことがないぐらいだ。強くて球離れが速い中田はなんとか耐えていたが、当たり弱く球を持ちがちの中村は恐がり、さらには自信を喪失し始めていたはずだ。こんなふうにして序盤から度々ボールをカット・逆襲されたからこそ、その結果として後陣が怖がってずるずる下がることになってしまったのだ。接触プレーに弱い日本への、敵将ヒディングの作戦でもあったと思うのだが、この「怪我も覚悟の肉弾戦」という点でもワールドカップは特別な闘いなのだ。オーストラリアはさらに、日本戦用の「ファールになりにくい体当たりの仕方」なども随分研究してきたようだった。例えば地面に置かれた足の甲を踏みに来るなどというのを、僕は少なくとも三、四回は見た。やられた日本選手は次の動作がもう完全に止まってしまう。ワン・ツーのワンを放った選手の足が踏まれると、その受け手はもうツーが放てないからドリブル、そこへまたガツンッだ。

 さて、こうして日本の弱点は世界に知れ渡った。どう対処したら良いのか。組織的パスカット、パス交換の精度を上げるという以外には無いだろう。走り回って敵ボールにプレスをかけあう、受け手が走り回って味方ボールを受けてあげあう。そういう組織的精度と走り続けることでは絶対にどこにも負けないこと。
 幸い次のオシム監督は「走るサッカー」の日本に、さらにその「走りの自主的組織化」を教えてくれた監督である。最適任者だと思う。あのボスニアのサラエボの出身。旧ユーゴ最後の黄金期の代表のような人。子飼いの選手たちが民族毎に分かれていった悲劇と平和の尊さとを誰よりも知っている人でもある。特に熱い拍手を送りたい!
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チョムスキー「イラク戦争の米世界戦略」  文科系

2017年11月13日 11時18分32秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 北朝鮮問題で、戦争一歩手前という雰囲気が醸成されつつある。そんな時は、同じアメリカが起こしたイラク戦争を思い出すべし。今振り返れば「大量破壊兵器」というでっち上げられた理由でアメリカのマスコミ、国民が開戦に向かって熱狂していたのである。今しか見えない「国民」とは、こんなにも恐ろしい怪物にもなり得るということ。
 因みにアメリカにとってイラクとは、「昨日の身方が今日の敵」という手の平返しをしてみせた、そんなお仲間だったのである。アメリカにとって中東最大の仇敵はイランであって、これを牽制するための身方こそ、フセインと彼が支配するイラクだった。このことを、今どれだけの日本人が覚えていることだろうか。以下のように・・・。

 さて、ノーム・チョムスキーをご存じの方も多いだろう。偉大な言語学者、哲学者にして、現代世界の全ての学者たちの論文で聖書、プラトンに次いで引用される著作が多い現存の人物である。この書を書いた当時87才のアメリカ人だが、米国政府の戦争政策の長年の研究者、告発者でもある。彼の著作に「覇権か生存か」という隠れた世界のベストセラーがあって、そこで問題にされているイラク戦争部分を抜粋してみる。2004年9月発行の集英社新書による全9章(新書版337ページ)のうち、主として『第5章 イラク・コネクション』50ページ余の部分から。なお、同書にはこんな壮大な副題が付いている。『アメリカの世界戦略と人類の未来』
 人が歴史の今ばかりを観て、以下のような過去を忘れるようになったことが、民主主義もなかなか正しく機能しない事態をもたらせていると愚考してきた。ちょっと長いが、お読み願えれば嬉しい。

(1)イラク戦争の経過

 1990年までは、アメリカはフセインをずーっと支え続けてきた。イラン・イラク戦争(80~88年)の時以降ずーっとイランこそがアメリカの標的だったし、89年10月にもフセイン政権に食糧、化学薬品、科学技術など多大な支援をしている。中東安保の柱として彼を活用して、その「巨悪」にも目をつぶってきた。大量破壊兵器もどんど支援してきた。ところが・・・。
1990何8月 フセインがクゥエート侵攻
1991年1月 湾岸戦争開始
1991年3月 全国で反フセイン暴動発生。アメリカは、フセインによるこれの鎮圧・大虐殺行動を黙認  
2001年9月 9/11テロ事件
2001年10月 アフガニスタン戦争
2002年1月 ブッシュ大統領「悪の枢軸」発言。イラク、イラン、北朝鮮を名指す。
2002年9月 アメリカ、国家安全保障戦略発表。予防戦争(先制攻撃)概念を世界に表明
2002年10月 米議会、対イラク武力行使容認を決議
2002年11月 国連が4年ぶりに、イラク大量破壊兵器を査察
2003年3月 イラク戦争始まる

(2)その「台本」

①国際版
『1980年代における「対テロ戦争」の二大中心地は、中米と、中東及び地中海地域だった』が、その中東を観ると、
『ワシントンにいる現職者が取り組んだ活動の一つは、よく知られるようになった。1980年代にCIAとその関係組織がイスラム過激派を募り、正規軍及びテロリスト部隊としての組織化に成功した事実だ。カーターの国家安全保障担当補佐官だったズビグニュー・ブレジンスキーによれば、その目的は「ロシア人をアフガンの罠におびき寄せること」であり、初めは秘密工作によってソ連をそそのかし、アフガニスタンを侵略させることだった』
『その直後の結果として起こった戦争のためにアフガニスタンは荒廃し、ソ連軍が撤退しレーガンのイスラム聖戦士に取って代わられると、更に悲惨な状況になった。それがもたらした長期的な結果は、20年に及ぶ恐怖政治と内戦だった』
『ソ連軍の撤退後、アメリカとその同盟者(その中にアルカイダを始めとするイスラム聖戦士が含まれる)によって徴募され、武装及び訓練されたテロ組織は矛先を他国に向け・・・・・(1993年には)関連グループが「CIAのマニュアルで教えられた手法」に従い、世界貿易センタービルを破壊する一歩手前までいった。計画を立てたのは、シェイク・オマル・アブドル・ラーマンの支持者だったことが判明している。ラーマンはCIAからアメリカ入国の便宜を図ってもらい、国内でも保護されていた人物だ』

 とまーこんな経過で、イスラム戦士が育成され、911からイラク戦争へと繋がっていったと、チョムスキーは説いている。
 
②国内版
『(2000年に大統領になった)ジョージ・ブッシュ二世のために、広報活動の専門家とスピーチライターは、天国へまっしぐらの実直な男というイメージを作り出した。「理屈抜きの本能」を信じ、自らの「展望」と「夢」を思い描きながら、「世界から悪人を追放」するために前進する男、要するに古代の叙事詩や子供のお伽噺に、カウボーイ小説を混ぜ合わせたごとき滑稽な人物像である』
『(ブッシュらが言うところの)テロとは何を指すのか?・・・・適切な答えが出れば意義あるものにもなろうが、こうした疑問は公開討論の場には決して持ち込まれない。代わりに、都合のいい定義が採用された。テロとは、我々の指導者がそう宣言するものなのだ』

 00年大統領選挙で、ブッシュは民主党候補ゴアと争って、有名な「疑惑の辛勝」を勝ち得た。選挙への無力感が過去最高レベルの50%以上に達した。04年の選挙を控えて、さらに落ちた人気への新戦略が必要だった。軍事費増、富裕層減税から社会保障費削減がさらに進んだからだ。
 そこから『先制攻撃による新しい過激な軍事戦略の提出』に国民の目を向けさせる事に励んでいった。この「冒険主義」には多くのリスクがあったが、以下の狙いに邁進したわけである。『米国社会の徹底的な改造に着手し、それによって1世紀にわたる進歩的な改革を押し返すことと、世界を恒久支配するための帝国の壮大な戦略を確立させることである。そうした目的に比べれば、それに伴うリスクは、些細なことと思えるのかも知れないのだ』(P183)

(3)イラク戦争で問われているもの

『02年9月には、国家安全保障戦略が発表された。でっち上げられた恐怖によって、イラク侵攻に向けて国民の間に充分な支持基盤ができ、意のままに侵略戦争を始める新たな規範が設けられた』
『イラクとの戦争は、それを実行すれば大量破壊兵器とテロが拡大するかもしれないという認識のもとに実行された。だが、それに伴うリスクは、イラクに対する支配権を強化し、予防戦争の規範をしっかりと築き、国内における政治力も高められるという見込みと比べれば些細なことと考えられた』

 こうして著者は「覇権か生存か」で前者を歴史的大局的に描きながらも、後者に希望を託するのである。その下りは、このようなものだ。
『現代史を通じて、人権状況は著しく改善され、生活の一部の面では民主的な管理が行き届くようになった。こうした展開が、啓発された指導者の贈り物であることは滅多にない。ほとんどの場合、一般の人々が戦い、国家やそれ以外の権力中枢に課してきた展開なのである』
『今日の歴史の中に、人は二本の軌道を見出すはずだ。一本は覇権に向かい、狂気の理論の枠内で合理的に行動し、生存を脅かす。もう一本は「世界は変えられる」ーー世界社会フォーラムを駆り立てる言葉ーーという信念に捧げられ、イデオロギー的な支配システムに異議を唱え、思考と行動と制度という建設的な代案を追求する。どちらの軌道が支配するかは、誰にもわからない。こうしたパターンは歴史全体によく見られるが、今日の決定的な違いは、懸けられているのが遙かに重大なものだということである』
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