大相撲の日馬富士、間違いなく馘首であろう。
以前にも、民間人に暴力を働いた朝青龍の馘首があったが、大相撲は身体芸術文化としてのスポーツを愛する僕から見ると、大変に不条理な、おかし過ぎる世界。大好きな正統派スポーツ評論家・玉木正之なら、間違いなくこんな批判を始めるだろうというものをもっと厳しくして、一言。
相撲も野球も、日本では歴史的に、興業の側面が強すぎる。見世物、商売ということである。ちなみに、野球は違うという人がいるが、これは以下のように無理解というもの。その点を今は先ず脱線して、少々述べてみる。
野球は、プロ野球が社会人、学生などのそれを歴史的に金でほほを叩くようにして牛耳ってきて、アマチュア・学生野球との間で過去にどれだけトラブルを起こしてきたことか。アマチュア野球界でプロの横暴を憎む人々が後を絶たなかったはずだ。国民スポーツとしての配慮、発展を図るという姿勢がプロ側に少なかったということだろう。というよりも、金と職業だけでアマチュア、学生を引っ張れたから、サッカーのようにはアマチュアとプロとの連携的スポーツ発展意識が醸成されては来なかった。
しかも、こういう体質のプロ野球にもう一つマスコミ(新聞社とテレビ局との商売)が絡んできたから余計に商業主義の弊害がもたらされてきたのではないか。マスコミ上げて新人入団、ドラフトを扱うのも野球だけ。ほぼ野球だけで食っている新聞も多いから、こんな習慣も無数にあるのだ。そもそも読売、毎日、中日などは、歴史的に球団の主人でもあった。このマスコミ側面は、マスコミの公器性を損なう点さえ創ってきたのではなかったか。国民スポーツという真の公共性に違うような側面が多々存在してきたということをマスコミ関係者が胸に手を当てて考えて欲しいものと、折に触れて常々愚考してきた。
さて、大相撲である。スポーツとしてみた場合でも、あんな体型が推奨できるわけがない。それも、引退後に体型を直すべく精進できる人も少ないらしくて、みんな早死に。近代スポーツ精神に違うこと甚だしいと観てきたものだ。
さらに、「無理偏に拳骨」というあの封建的体質は、ほぼ戦前の反民主主義社会の伝統のまま。だからこそ、こんな暴力事件は日常茶飯事に起こっているのだ。加えるに、男芸者という伝統的言葉もあるくらいの金持ちへのあのタカリ体質、構造! タニマチという言葉をよく聞くが、これらすべて、徳川時代の大名、大商人などに小遣い貰った伝統をそのまま残しているということでもあろう。近代化以降は、政財界人やマスコミへのタカリを商売にしてきたのだし、一時は演歌世界の興業などと同じで、反社会的団体との関係も取りざたされたこともあった。
これらがあの素晴らしいスポーツをどれだけ毒してきたことか!
スポーツと言いたいのなら、例えば、体重制限をすればよいのだ。階級制というのではなく、これこれの体重に留めることというような。そんな近代スポーツの概念もろくに入っていかないあの世界は、スポーツとも文化とも言えないと思う。どんなスポーツも「アスリートというのは早死にする」のは確かだが、とにかくあの体重は酷すぎる。それも、金櫃(かねびつ)を1人でも多く生み出すためにこそ、「食え、食え。飲め、飲め」と育て上げていく。まるで超高く売るためのフォアグラや和牛ではないか! 近頃の健康志向にこんなに反していて、何の「国民伝統スポーツ」であるか。だからこそ、僕が中学時代の昼の放課などに大いに楽しんだ光景は今はどこにもなくなったのであろう。こんな「日本の伝統」世界は今や、僕にはただ恥ずかしいだけである。
そう言われたくなければ一例として、引退後は皆が正常な体型、体質に戻るように、相撲協会が責任を持って指導すべきだろう。今のままのあんな「伝統」の色々は全く好きにはなれない。何の反省、改革もなく、ただ惰性で金持ちにたかって食いつないできた世界、そんな気がしてならないのである。
以前にも、民間人に暴力を働いた朝青龍の馘首があったが、大相撲は身体芸術文化としてのスポーツを愛する僕から見ると、大変に不条理な、おかし過ぎる世界。大好きな正統派スポーツ評論家・玉木正之なら、間違いなくこんな批判を始めるだろうというものをもっと厳しくして、一言。
相撲も野球も、日本では歴史的に、興業の側面が強すぎる。見世物、商売ということである。ちなみに、野球は違うという人がいるが、これは以下のように無理解というもの。その点を今は先ず脱線して、少々述べてみる。
野球は、プロ野球が社会人、学生などのそれを歴史的に金でほほを叩くようにして牛耳ってきて、アマチュア・学生野球との間で過去にどれだけトラブルを起こしてきたことか。アマチュア野球界でプロの横暴を憎む人々が後を絶たなかったはずだ。国民スポーツとしての配慮、発展を図るという姿勢がプロ側に少なかったということだろう。というよりも、金と職業だけでアマチュア、学生を引っ張れたから、サッカーのようにはアマチュアとプロとの連携的スポーツ発展意識が醸成されては来なかった。
しかも、こういう体質のプロ野球にもう一つマスコミ(新聞社とテレビ局との商売)が絡んできたから余計に商業主義の弊害がもたらされてきたのではないか。マスコミ上げて新人入団、ドラフトを扱うのも野球だけ。ほぼ野球だけで食っている新聞も多いから、こんな習慣も無数にあるのだ。そもそも読売、毎日、中日などは、歴史的に球団の主人でもあった。このマスコミ側面は、マスコミの公器性を損なう点さえ創ってきたのではなかったか。国民スポーツという真の公共性に違うような側面が多々存在してきたということをマスコミ関係者が胸に手を当てて考えて欲しいものと、折に触れて常々愚考してきた。
さて、大相撲である。スポーツとしてみた場合でも、あんな体型が推奨できるわけがない。それも、引退後に体型を直すべく精進できる人も少ないらしくて、みんな早死に。近代スポーツ精神に違うこと甚だしいと観てきたものだ。
さらに、「無理偏に拳骨」というあの封建的体質は、ほぼ戦前の反民主主義社会の伝統のまま。だからこそ、こんな暴力事件は日常茶飯事に起こっているのだ。加えるに、男芸者という伝統的言葉もあるくらいの金持ちへのあのタカリ体質、構造! タニマチという言葉をよく聞くが、これらすべて、徳川時代の大名、大商人などに小遣い貰った伝統をそのまま残しているということでもあろう。近代化以降は、政財界人やマスコミへのタカリを商売にしてきたのだし、一時は演歌世界の興業などと同じで、反社会的団体との関係も取りざたされたこともあった。
これらがあの素晴らしいスポーツをどれだけ毒してきたことか!
スポーツと言いたいのなら、例えば、体重制限をすればよいのだ。階級制というのではなく、これこれの体重に留めることというような。そんな近代スポーツの概念もろくに入っていかないあの世界は、スポーツとも文化とも言えないと思う。どんなスポーツも「アスリートというのは早死にする」のは確かだが、とにかくあの体重は酷すぎる。それも、金櫃(かねびつ)を1人でも多く生み出すためにこそ、「食え、食え。飲め、飲め」と育て上げていく。まるで超高く売るためのフォアグラや和牛ではないか! 近頃の健康志向にこんなに反していて、何の「国民伝統スポーツ」であるか。だからこそ、僕が中学時代の昼の放課などに大いに楽しんだ光景は今はどこにもなくなったのであろう。こんな「日本の伝統」世界は今や、僕にはただ恥ずかしいだけである。
そう言われたくなければ一例として、引退後は皆が正常な体型、体質に戻るように、相撲協会が責任を持って指導すべきだろう。今のままのあんな「伝統」の色々は全く好きにはなれない。何の反省、改革もなく、ただ惰性で金持ちにたかって食いつないできた世界、そんな気がしてならないのである。