九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

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日馬富士の馘首にかかわって   文科系

2017年11月14日 13時49分21秒 | Weblog
 大相撲の日馬富士、間違いなく馘首であろう。
 以前にも、民間人に暴力を働いた朝青龍の馘首があったが、大相撲は身体芸術文化としてのスポーツを愛する僕から見ると、大変に不条理な、おかし過ぎる世界。大好きな正統派スポーツ評論家・玉木正之なら、間違いなくこんな批判を始めるだろうというものをもっと厳しくして、一言。

 相撲も野球も、日本では歴史的に、興業の側面が強すぎる。見世物、商売ということである。ちなみに、野球は違うという人がいるが、これは以下のように無理解というもの。その点を今は先ず脱線して、少々述べてみる。
 野球は、プロ野球が社会人、学生などのそれを歴史的に金でほほを叩くようにして牛耳ってきて、アマチュア・学生野球との間で過去にどれだけトラブルを起こしてきたことか。アマチュア野球界でプロの横暴を憎む人々が後を絶たなかったはずだ。国民スポーツとしての配慮、発展を図るという姿勢がプロ側に少なかったということだろう。というよりも、金と職業だけでアマチュア、学生を引っ張れたから、サッカーのようにはアマチュアとプロとの連携的スポーツ発展意識が醸成されては来なかった。
 しかも、こういう体質のプロ野球にもう一つマスコミ(新聞社とテレビ局との商売)が絡んできたから余計に商業主義の弊害がもたらされてきたのではないか。マスコミ上げて新人入団、ドラフトを扱うのも野球だけ。ほぼ野球だけで食っている新聞も多いから、こんな習慣も無数にあるのだ。そもそも読売、毎日、中日などは、歴史的に球団の主人でもあった。このマスコミ側面は、マスコミの公器性を損なう点さえ創ってきたのではなかったか。国民スポーツという真の公共性に違うような側面が多々存在してきたということをマスコミ関係者が胸に手を当てて考えて欲しいものと、折に触れて常々愚考してきた。

 さて、大相撲である。スポーツとしてみた場合でも、あんな体型が推奨できるわけがない。それも、引退後に体型を直すべく精進できる人も少ないらしくて、みんな早死に。近代スポーツ精神に違うこと甚だしいと観てきたものだ。
 さらに、「無理偏に拳骨」というあの封建的体質は、ほぼ戦前の反民主主義社会の伝統のまま。だからこそ、こんな暴力事件は日常茶飯事に起こっているのだ。加えるに、男芸者という伝統的言葉もあるくらいの金持ちへのあのタカリ体質、構造! タニマチという言葉をよく聞くが、これらすべて、徳川時代の大名、大商人などに小遣い貰った伝統をそのまま残しているということでもあろう。近代化以降は、政財界人やマスコミへのタカリを商売にしてきたのだし、一時は演歌世界の興業などと同じで、反社会的団体との関係も取りざたされたこともあった。
 これらがあの素晴らしいスポーツをどれだけ毒してきたことか!

 スポーツと言いたいのなら、例えば、体重制限をすればよいのだ。階級制というのではなく、これこれの体重に留めることというような。そんな近代スポーツの概念もろくに入っていかないあの世界は、スポーツとも文化とも言えないと思う。どんなスポーツも「アスリートというのは早死にする」のは確かだが、とにかくあの体重は酷すぎる。それも、金櫃(かねびつ)を1人でも多く生み出すためにこそ、「食え、食え。飲め、飲め」と育て上げていく。まるで超高く売るためのフォアグラや和牛ではないか! 近頃の健康志向にこんなに反していて、何の「国民伝統スポーツ」であるか。だからこそ、僕が中学時代の昼の放課などに大いに楽しんだ光景は今はどこにもなくなったのであろう。こんな「日本の伝統」世界は今や、僕にはただ恥ずかしいだけである。
 そう言われたくなければ一例として、引退後は皆が正常な体型、体質に戻るように、相撲協会が責任を持って指導すべきだろう。今のままのあんな「伝統」の色々は全く好きにはなれない。何の反省、改革もなく、ただ惰性で金持ちにたかって食いつないできた世界、そんな気がしてならないのである。
   

 
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ハリルジャパン(131)ワールドカップ奮戦記②  文科系   

2017年11月14日 10時14分42秒 | スポーツ
 このブログが始まった2005年から、3回のワールドカップがあった。その戦評として、その都度ここに拙稿を載せてきて、それを今連載している。第1回目は昨日、ドイツ大会分を載せた。第2、3回目は南ア大会の拙稿をそのまま載せる。僕はスポーツを、身体芸術という最重要の人間文化の一つとして捉えているので、少しでもお楽しみ願えれば特に嬉しい。
 なおこの大会の結果は、以下のようなものであった。カメルーン戦が1対0、オランダ戦が0対1、デンマーク戦が3対1と、全て格上を相手に2位通過。そして決勝トーナメントでは、南米のパラグァイと延長90分0対0でPK戦になって、敗れた。
 この大会は、直前の土壇場になって守備的な組織替えを敢行したことで、サッカー雀も大議論になったもの。本田、松井、大久保を先陣に置き、阿部をアンカーに据えて、岡崎、俊輔、内田が先発を外れることになったのである。そんな結果が、僕自身も予選段階を批判して止まなかった岡田監督の、ベスト8もすぐそこというような、あの大成果。まー嬉しかったこと!


『 サッカー代表、南アワールドカップを振り返る ①  文科系  2010年06月30日

 パラガイ戦の戦評は、あのゲーム自身と同じように難しい。世界のサッカーマスコミでも、評価が分かれている。点取りのアイディアを中心に見れば両チームとも低評価になるし、チームとしての総合力で見れば日本ということになるらしい。オシムが「日本は、ミルクをこぼした」と表現したり、ヒデが「日本のが実力は上」と述べたりしたのは、玄人的な後者の評価なのだろう。またこの両者ともが「日本はもっと攻められた」と述べているが、とにかくそのことについて書くのが、このゲームの焦点であるべきだろう。

 まずこういうことだ。大会直前にあの守備を確立したからここまで来られたということを考えれば、今回に関しては無い物ねだりとも言えると。このことは、岡田監督も自分の責任として、認めている。
 岡田監督はこう述べた。
「点が取れないのは一つだけの理由ではない。それでも、前半途中から遠藤を前に出すとか、守備の要・阿部を憲剛に替えるとかして、リスクを冒した攻めの采配はした積もりだ。それ以上は監督としての僕の力不足。執着心が足りなくて、選手に勝たせてあげられなかったということだ」

 さて、南ア大会の準備段階も含めた日本全体の総括はどうなるか。まず、日本史上最強チームが土壇場になって生まれたことは間違いない。その最強チーム誕生には、2つの要素が絡んでいると思いつく。
 1つは、日本に適した守備体制の発見。過去にもまして強いチームばかりと対戦し、1ゲーム当たり失点0.5というのは特筆すべき事だろう。その検証が第1の課題だろうが、アンカーに阿部という人材を置いたことも慧眼で、きわめて大きかったと思う。評論家などからは稲本という声が圧倒的に多かっただけに「なぜ阿部がこの守備組織に適していたのか?」は、「日本にあった守備体制とは?」の問題としても今後きちんと総括しておくべき重要事項だと思う。ちなみに、ブラジル出身の名監督シャムスカは、既に今年初めから阿部を推薦していた。また、この阿部が成長期においてオシムに育てられた人材だということも明記しておくべき事だと思う。

 2つ目は、数人の柱が誕生してきたこと。点取り屋・岡崎の誕生がなければ予選段階の困難はずっと増していたと思われる。次いで、本田、長谷部、松井、俊輔という海外組の活躍だ。海外組がいないと急に弱くなったとは、予選段階からはっきりしていたことだったし、本大会のぎりぎりの所ではいつも彼らの活躍に助けられていた。これらの人材の諸能力を、その世界レベルへの成長過程を聞き取ることなども含めて、きちんと追跡・検証すべきではないか。
 
 最後に今後の攻撃、点取りの方向である。「人もボールも走るサッカー」とは、オシムの造語だ。そのオシムは、この「人もボールも走るサッカー」の基礎を教え、これを攻撃法、点取り法にも適用しようとした矢先に倒れた。そのオシムは今、こう述べている。そういう日本的サッカーの確立には、もっとスピードのある選手を発掘すべきだと。技術的スピードは日本にはある程度の水準があるのだから、瞬発走力としてのスピードのことなのである。例えば、岡崎やオランダのロッベンのような。岡崎の大化けの原因は「走り出しで勝負」にあるのだし、ボールを持って走り出したロッベンは止められないというようなものだ。今や世界的強豪クラブのエースと言われる選手ならば、ロッベンのような選手か、メッシやジダンのようなターンなど技術的スピードに特に優れているか、どちらかである。なお、現代サッカーには守備にもスピードが要求されるのであって、長谷部、長友、阿部らの活躍は、彼らのスピードを抜きには考えられないのではないか。

 岡ちゃんが、協会に対してこの3年間の卒論を書くそうで、それをとても楽しみにしている。また来年は、南アメリカ大陸のコパリベルタドーレス杯争奪戦にメキシコとともに日本が招待されたと聞いている。代表新監督が誰になるのか、とても楽しみだ。ついては、今回の結果から考えても案外日本人でも良いと思った。土壇場で守備重視に切り替えて間に合ったというのは、日本人のメンタリティーに通じていなければあり得ないことだと考えるからだ。日本人ならばガンバ大阪の西野が、実績で頭抜けている。日本人を良く知っているオシムも、ガンバのサッカーを褒めていることだし。


(海外大会で唯一決勝トーナメントに出たのがこの南ア大会。南ア大会をもう一度続けます)
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ご立派、公明党が正論を吐いた!   文科系

2017年11月14日 10時00分22秒 | 国内政治・経済・社会問題
 正論の内容

『改憲には国民の3分の2を超える賛同が前提となる』
 (改憲に必要な)国民投票過半数ぎりぎりでは大きな反対勢力が残ることになって、国民的議論が煮詰まったとは言えないとも説明している。これは現在非常に重要な見識ある政論だと愚考した。
 国会の自民党絶対多数は小選挙区制がもたらしたものであって、その絶対得票率は半数を割っている。改憲に必要な「国会議員の3分の2」がこういう内実では、国民投票が過半数ギリギリで通過しても改憲はダメと、そういう議論、問題提起なのであろう。
 この議論は、憲法というものの性格から考えても正論であると言いたい。憲法の世界史的誕生理由は、主権者・国民の基本的諸権利を守るために為政者はこれだけのことを守れと、国民が為政者を縛ってきたというもの。為政者が、常に独走しがちだったという歴史的教訓の産物なのである。よってまた、通常の法律などとは違い、「代議制を通じて国民が決める」諸法律の根幹なのである。そのようなものを、たった一時国会で3分の2議席が出来た瞬間に、過半数国民賛成と言うだけで慌てて通してしまうようなものではないはずだと、そういう正論なのである。

 小池氏も同じ立場?

 そう言えば、小池百合子も総選挙直前に安倍政権に対して、こんなことを述べていた。「安倍政権の改憲論議は、9条に拘りすぎている」。この小池と公明党が都知事選、都議選では協力し合ったと、そのことも今、僕は思い出すのである。つまり、公明党も小池百合子も、安倍の「9条スケジュールありき(主義)」が少なくとも国民反発を招くと恐れているのだろう。公明党の「国民3分の2」論議は、そんな中から出て来た正論なのであろう。僕から観てもまさに有難い、大変嬉しいニュースであった。

 こんな夢を見たい

 以上の情勢から、僕はこんな夢を見る。こんな大きな問題で、こんな時宜に叶った賢こすぎるほどの論議を編みだしたのは誰で、誰が公明党に入れ知恵したのだろうか、などと。丁度文科省の前川氏の正論による安倍政権への反逆を観たばかりだから、こういう「改憲論議」を持つ高級官僚たちの存在、出現を夢見ざるをえないのである。内閣人事局を創ったが故に、官僚たちを己の掌の上で強引に踊らせ続けてきたと、そういう安倍のやり方に反発を感じる官僚たちがまだまだ存在するのではないか、と。
 そう言えば、内部昇格人事が慣行になって来た内閣法制局長を外務省から強引に移動させたっけとか、「関係書類は破棄しました」と言い続けた大蔵官僚を筆頭局長に強引昇格させたっけとか、その他諸々の荒技も思いだすのである。前川氏と同様に、こんな正義も法もない内閣のやり口に唯々諾々と付いていくのは誤り、一度きりの人生の無駄遣いであるから職を賭してもと、そんな人々が他にも出てこないかな、とも。

 ということなどなど良い夢を見させてくれたほどに、公明党今回の提起は、歴史に残るような正論であると言いたい。
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