1970さんへ
今日の君のエントリーがあったことによって、君との「サッカー観戦の王道」の討論が、大変深まっていくと愚考、予想できるから、本物の深謝である。以下のこういう意味も含めて、一段と良いご応答であると初めに、言っておきたい。このエントリーに書いてあるのは、「王道」についての君自身の中身そのもの、他に君が言うどうでも良いこととは違うから。
君も既に気付いているはずだが、君がここに書いたことと僕がこれまで述べてきた日本サッカー現段階の見解とは、今の日本サッカー界を二分している見解だよね。専門マスコミ中央では、僕の見解の方が少数意見だと僕も意識しているけど。ちなみに、僕の大嫌いな杉山某などいわゆるサッカーマスコミに多数意見が多くて、協会は僕よりだと観ている。というよりも、僕寄りになりつつあると。
まず、君の上記「日本の王道」は、こんな風にまとめられるはずだ。
① 『せっかくオシムが植え付けたボールも人も動くという武器も埃を被る。・・・・只でさえフィジカルに劣る日本はスペイン、メキシコを目標に人もボールも動かしながら要所で身体を張ればいいんだけどね』
② 『対豪戦を含め総じて言えるのはこの戦い方は目先の結果を目的とするならいいが、長期的には逆効果になるだろうねということ』
『実力で相手が圧倒的に上回る時の戦い方としてはいいけどね』
③ 『こういう戦術で世界のトップクラスとやっても自分で自分の首を絞めるだけ』
さて、こういう見解と僕のとで、「最も異なる観点」というものは、一体何なんだろうかと、改めて考えてみた。その結論は、まずこうなったよ。
自分から仕掛ける「繋いで攻撃」をロマンと感じ、カウンター戦術をリアクションサッカーという夢のない「現実的なだけの戦術」と感じているのではないか。
さて、今回はまず、こういう観点について論じてみる。僕の観点の重要用語を使用してね。そもそも、繋ぐ攻撃、潰す守備と、そんなに攻守の峻別ができるものかなというのが、言いたい事。以下は、ほぼすべて、この峻別不可能ということを巡る言及になる。
① バルサの繋ぐ攻撃の元祖は二つあって、その一方は全盛イタリアをリードし、90年前後にチャンピオンズリーグを2連覇したアリゴ・サッキ「ACミラン」だとは、世界サッカー史の常識。サッキが編み出した当時の最強戦術「ゾーン・プレス」というコンパクト・プレス自身は、攻撃的ではあるにせよ守備の体制である。敵にボールが移るとこの体制を取ってボール奪取に成功する。だから、敵はこちらのゴールに迫れないどころか、ほとんど攻められっぱなしになってしまう。ここでさて、「ボールを採られたらすぐに奪い返せるから攻めっぱなしになるチーム」って、攻撃的なのか守備的なのか、どっちだと考える? 君流のロマンなのか、ロマン派が嫌いな現実派であるのか。このチームが89年チャンピオンズリーグ決勝戦では、レアルマドリーを2ゲーム合計確か6対1で破ったのだが。
② 次にこの続きだけど、僕がここによく書いてきた2010年のチャンピオンズリーグ準決勝インテル・バルサ戦。あのインテルは明らかに守備的、現実的で、明らかなどん引きカウンターに徹したのだが、あれだけ0点に抑えてゴール前で守っている時間だけが長くても、ある瞬間に敵ボールに詰めて、奪い取って、そこから超長いロングカウンターを成功させる自信があるチームというのは、夢がないと言えるのかな? ゲーゲンプレスや、今に至るそう言う考え方の変形(こういう選手としては、例えば原口)も、結局これと同じことであって、「守備即攻撃」「潰し即得点」と言う考え方ね。
③ なお、繋ぐ攻撃、潰す守備については、こんなことも言える。潰し体制にも自信が持てなければ大胆なパスなど通せないから横に繋ぐばかりでシュートで終われないし、前に無謀なパスが多いと後ろが観ればDFラインが上げられないから間延びして、現代サッカーではボールが奪えなくなる。こうしてつまり、チームの潰しに信頼がない場合には繋ぎサッカーなどあり得ない。
こういう全てを推してロマン派はなおかつ、「『カウンターサッカー』はロマンがない。繋ぐ攻撃に徹せよ」と言うのであるか?
そして何よりも、こういう①~③を度外視した「繋ぐサッカー」が、将来必ず勝てるサッカーになると言えるのかどうか。