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日米外交、一つの転換点・・・ 文科系

2018年09月01日 16時37分38秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 アメリカ・トランプの保護主義は、国際法、慣行を無視した利己主義極まるもの。世界経済、その世界総需要収縮などどうでも良いというような、昔だったら戦争が起こる乱暴狼藉である。
 それに慌てた安倍政権も流石に、中国、BRICSを無視できなくなったようだ。アベとしては初めて、日本国家の政権としても7年ぶりだかの首脳会談目指して、懸命な求愛下交渉を始めた。こうなることは、もう初めから分かっていたことである。GDPの4倍を超える国家累積赤字を抱えて困っている国に頼り、ここに着いていくだけでは碌なことはないと。なにせ、こんな国家大赤字を抱えていても、年60兆円だかの軍事費だけは減らさないで来たアメリカだ。最大の圧力団体・産軍複合体の威力によるもので、こんな国に日本が着いていっても、もはや高価な兵器を買わされるだけのこと、自動車の輸出を維持する程度では到底割に合わなくなるばかりだ。この先いずれ、アメリカの戦争のために日本の若者が死ぬことになる。

 さて、こういう今を一種見通していたというように、アベの対米政策に反旗を翻していたやの骨のある元外務官僚が居る。孫崎享である。その書を紹介した旧稿を3回にわたって再掲したい。今こそ耳を傾けるべき著作の紹介である。


【 日米外交、一つの転換点・・・ 文科系  2015年04月02日 | 国際政治・時事問題(国連・紛争など)

はじめに

 今、日米外交が一つの転換点に遭遇していると思う。それを示したのがこれ、15年末開設を目指したアジア・インフラ・開発銀行が世界中で脚光を浴びているのである。日米最大の同朋国だった英国苦肉の参加決定以降、初代参加国に名乗りを上げる雪崩現象が世界中で湧き起こっている。18日には英独仏伊が加わって27ヶ国だったものが、1日の中日新聞では、こう報道された。
『創立メンバー・参加表明国が31日の申請期限までに46ヶ国に上った』

 同じ日米同朋の韓国やオーストラリアは既に加盟したし、G7のカナダまでが加わる見込みと伝えられた。アメリカは隣国カナダに対して起死回生の制止・懐柔工作を暗躍これ努めていることだろう。世界主要国では、日米だけが乗り遅れたという形になった。中国はこういう日米をも歓迎しているのだから、日米不参加には意地のようなものしか感じられない。世界銀行とアジア開発銀行それぞれの歴代総裁国として、中国の発言権拡大を拒んできた者という意地でもあるのだろう。アジア通貨危機とその後始末などでこの二つが嫌われ尽くしたから、亜インフラ銀行への雪崩現象が起こっているのであるから、今の転換点が極めて深刻な物だと示されているのである。
 
 国境問題で中国と揉めているフィリピンやベトナムも参加したが、これは日本の右の方々にとっては不快この上ない出来事になるはずだ。「国境? 領土? そんなことより今の失業者をどうするのか?」。けっして安定的労働者とは言えないはずの日本のネトウヨ諸君こそむしろ、ここから学ぶべきなのである。
 ちなみに、英国の参加決定でも、こんな激論があったという。「日米関係にひびが入る」と猛反対したのが英国外務省。対して「国民がどうやってくっていくのか」と反論した財務省に、キャメロン首相が同意したのだった。

 今我々は、世界が音を立てて変わっていくその転換点に立っているのだと思う。
 スペイン、オランダ、イギリス、米国と、歴史上の世界新興経済大国が遅かれ早かれ国際政治の強大国にもなったというのは、歴史の法則。戦後政治の次の転換点が意外に速いのではないかという観点から、一つの考察を試みたい。戦後世界政治にもう一つ大転換点があったのは、つい25年前。それを振り返ることによって国際政治の近い将来を正しく観測していく一つの資料を提供しようという意図である。

(1)日米は冷戦終結をどう迎えたか

 冷戦終結と東欧崩壊。今からわずか25年前1990年前後のこれは国際政治における100年に一度の大事件だったと言える。この時の日米は肩を並べて世界で頭抜けた経済大国だったから、それぞれが互いを意識しあって、この転換点をどう迎えるかで大議論になった。結果は、まさに大議論を行ったアメリカの決定に日本が従属し直したのであるが、以来25年間、日本住宅バブル破裂、リーマンショックなども挟んで、日米の経済的没落、中国の台頭が続いた。このことは、世界周知の事実である。

 この冷戦終結後に、アメリカはどんな議論をして、日本をどう従属させ直したか。このブログでも紹介した好著を種本にして、この時の議論をご紹介したい。13年1月3~7日の5回にわたった当ブログ拙稿の孫崎享著「戦後史の正体」第6章の要約紹介である。まず、この著者のご紹介。

【43年生まれで外務省に入省し、ウズベキスタンやイランの大使を歴任し、国際情報局長から、最後は防衛大学教授を務めていた。日本最高レベルの国際情報掌握者であって、かつ冷戦直後の93~96年にウズベキ大使を務めていたとなれば、冷戦後のアメリカ、その恥部などを最もよく知っている人物と言えるだろう。そういう人物が退職後の晩年に近くなって反政権・反米と言える著作を書いたとなれば、これは一読の価値ありというものである。】

【 孫崎はこの章の書き出し近くで、こんな文章を引用している。後のアメリカ統合参謀本部議長コリン・パウエルが、議長就任の前年1988年春にソ連のゴルバチョフから打ち明けられた話なのである。
『1988年春、ゴルバチョフは私に「将来私は冷戦を終わらせるつもりだ。あなたは新しい敵を探さなければならない」と述べた。「信じられない。しかし彼は本気だ」私は口にこそ出さなかったがこう思ったものである(中略)
 米軍がこれまで維持してきた膨大な兵士や兵器は不要になります。ソ連を仮想敵国として作られてきた軍事戦略も意味のないものになります】

【こうした状況のなかで米国が考えるべきことは次のふたつです。ひとつは「ソ連が崩壊したあとも、われわれは強大な軍事力を維持する必要があるだろうか。もし維持しようとした場合、国民の支持が得られるだろうか」という問題。もうひとつは「日本の経済力にどうやって対抗するか」という問題】

続く (2)はこういう内容です「冷戦終結、アメリカは「最大の脅威・日本」にどう対処したか」)】
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小説  祐介のワールドカップ(前編)   文科系

2018年09月01日 16時06分32秒 | 文芸作品
 二千二年三月十二日火曜日夕、文字通り居ても立ってもいられないという体で帰宅した鹿住のもとに、やっとその電話は届いた。
 「セーンセーエ、ほ-んと-に、入っちゃったよ。本当に、先生───」
 報告の主、祐介の電話越しの声は、何か間延びがしている。そう感じ取った鹿住の方も、もういけない。しばらく声が出ない。
 「…………良かったなぁ。…………頑張ったもんなぁ。病気もあったし─── 」
 祐介が、サッカーワールドカップ直前の八つの国際テストマッチに向けて、その第一戦の日本代表に選ばれたのである。電話口の鹿住の脳裏で、この四年間に祐介が闘ってきた希望、不安、迷い、闘病などが、フラッシュバックしていく。

 祐介は、九八年のフランスワールドカップ代表候補から最後にふるい落とされた三人のうちの一人である。その時、他の二人が起こした事件が、新聞をにぎわせたものだ。彼等が、日本代表監督・岡田武史の帯同要請を振り切って、フランス合宿から帰ってきてしまうという事件である。落選のショックが予測を遥かに越えていたと、岡田監督の談話も伝えられた。彼等の心中は、祐介にも理解できたはずだ。まだ十七歳の高校生で、最終候補二十六人のなかで最年少だったとはいえ、落とされた悔しさは他の二人と変わりようがないからである。しかし祐介は二人とは違って、代表の戦いを見届けるためにフランスに残るという道を選んだ。それができたのは、後に鹿住に話してくれたところでは、代表候補最年少の自分にはまだ先があると希望の方向を換えることができたからだということらしい。ところが、それ以降監督の座についたフィリップ・トルシエは祐介のこの希望を逆撫でするように、ただの一度も「日本代表」の声をかけるということがなかった。延々今年まで丸四年近くのことだ。代表候補合宿には何度も呼ばれたが、国際マッチ代表からはことごとく外れ続けて、ワールドカップ年の今年を迎えたのだった。ワールドユース、シドニー五輪、そして四年間に行われたすべての国際Aマッチ、来るチャンス、来るチャンスが、彼の手からすり抜けて行った。候補で呼ばれては、落とされ、また呼ばれては落とされるの繰り返しだ。その度に決定を祐介に伝えるチームの担当者も言葉がないという様子、ただ「今回もダメだったよ」と伝え、「また、次があるから」と付け加える。祐介の方は「じゃあ、俺の『次』はいつなんだ!」、こんな叫びを飲み込み続けたものである。鹿住もこの間、「呼ばれた時のための準備万端」だけに照準を定めてJリーグも闘ってきたというような祐介に、どれだけ心を痛めてきたことだろう。候補合宿にはたびたび呼んでおいてテストにもかけないというのは、一体どういうことなのか。練習戦略さえさんざんに迷い、長くオーバートレーニング症候群を患うほどに努力もしてきた若者なのだ。

 鹿住は、祐介の元家庭教師である。四年前に日本代表最終候補にまで残った祐介の、不足しがちな学校授業日数をカバーする仕事をその父親から頼まれて、それ以来付き合いが続いているという間がらだ。
「とうとう『次』が来たのか-。一週間あとに大阪で、ウクライナ戦があるんだったな-?」、鹿住がやっと声を出す。
 「うん。ウクライナ戦で評価されて、二戦日の欧州遠征・ポーランド戦、とにかくこれに出たい。これから八つもある代表ゲームで最後まで残れるかどうか、このポーランド戦でほとんど決まると思うんだ。ヨーロッパ組も来るし」
 「そうだったな。ヨーロッパ組はポーランド戦含めて八つのうち三つくらいにしか出ないんだったな-。彼等と合わせあえるかどうか、それが最終代表入りの最大関門になるんだな-」、後半は声の調子もくぐもりがちになっている。ヨーロッパ組と、鹿住や祐介が言っているのはこの場合、それぞれイタリア、オランダのプロチームに引き抜かれていった中田英寿、小野伸二を指している。祐介とともにフランスワールドカップを目指した最も若いメンバーで、中田は四年前のそのレギュラー、小野はサブメンバーとなった。
 「簡単じゃないよねぇ。一ゲームだけ、それもほんのちょっと出させてもらって、『もう来なくてよろしい』、そんな夢も見るよ」
 「何度も言うけど、そんなことはない。こんなに戦略的に代表を狙ってきたんだから、君の場合は出れれば、とにかく大丈夫」
 「でも他の相手も、チーム幹部のみんなと相談したりして、やってきたはずだろうしい」
 「大丈夫、大丈夫。これも何度も言ったけど、チームの同僚に森岡と戸田、守備の日本代表常連が二人もいるじやない。彼等が『祐介は出られれば、選ばれる。日本最大の弱点、得点戦略上の凄い武器になる』と言ってるんだから」
 「うん。二人に相談できたってのは、大きいよねぇ。競争柏手の情報は全部入ってくるしい。逆に、向こうには僕の情報は、テレビや新聞くらいだろうしい」
 「とにかく、狙ってきたことを出せば良い。いろいろあるんだろうから、今日はこれで切るよ」
 電話を切った鹿住は、つい一か月ほど前に祐介の誘いに応えて、ひさしぶりに二人で飲んだときのことを思い出していた。倍以上も年上のサッカー好きな部外者で、祐介の不安の整理役の一人。こんな立場を鹿住は心待ちにして、そのための準備にもいつしか励むようになっていた。そして、サッカーと日本代表チームとのウォッチヤーと言えるほどの資格を得ていたのかも知れない。


 極寒の二月初旬、ざくっと削った地肌を黒く塗った木材を使い、ログハウスとも船底とも見えるようなバー。鹿住が「自分の店」と人にも言っている唯一の場所だ。三十ちょっとに見えるオーナーマスターは「イタリア料理のレストランバーだ」と言うが、こんな若さでどこから仕入れるのか、カウンター向かいの壁に並べられた酒類の取り揃えはきらびやかに多種多様で、そのそれぞれについての薙蓄がまた多い。そして今、カウンター以外はやっと顔が分かるという程度に暗い店内で、三つのテーブルのうち二つが埋まっている。その一方に、顔を壁に向けて鹿住ら二人が座っていた。

 「うん、病気は治ったし、アーリー・クロスも一年かかってやっと物にできたし、君の『次』は必ず来ると自分に言い聞かせてでも、頑張る。それに備えたトレーニングは、ヨーロッパ組との連携を第一にイメージしたもので行く」
 鹿住が、先刻からの話題をもう一度、トーンをあげて半ば強引な調子に縮めくくる。アーリー・クロスというのは、味方陣低く左右どちらかのサイドにいる選手などがサイドライン沿いを急きょ大きく駆け上がって味方ボールを受け、すぐにフィールドを横切るように敵ゴール前へと放り込む速攻用のボールのことだ。敵ディフェンスが戻り切らぬうちに、早目に斜め前へと放り込めばアーリーがつくし、ただクロスという場合は「早目」、「速攻」という感じを抜き、『フィールドを横切るように』というところだろうか。いずれにしても、日本が不得手とする得点戦術の上で貴重な一手段であって、右サイドという守備的な祐介のポジションに期待されるほとんど唯一の攻撃参加オプションである。後ろの選手が前へ大きく抜けるのだから守備の応急手当が必要になるが、その分厚くなった速い攻撃から敵守備を分散させることもできて、得点の確率が飛躍的に高まる瞬間である。このアーリークロスも他の戦術と同様、当然のことながら「人材」が要件となる。精度の高いロングパスの出し手と、足が速くやはり高精度のクロスを持った受け手のサイド選手だ。こういう二人が年月をかけて培ってきた深い信頼関係と言いかえても良いかも知れない。サイド選手が走っても走っても、良いパスがこなければ無駄走りになるし、良いパスを通し続けても、結末であるクロスに精度が欠ければそこまでの全ての労力が無駄になる。無駄な戦術は消えるか、練習用の実験段階のものにすぎないか、いずれかであろう。逆に言えば、サイドがこれでもかとばかりにオーバーラップ、走り上がりを繰り返すチームは、この信頼関係が築かれているというわけだ。祐介のチームはJリーグきってのこういうチームで、サイドが右左ともにどんどん走り上がっていく。

 「四年間一回も呼ばれてないんだよ.中田ヒデさんらがトルシエに外される可能性だって、やっぱり残ると思うしぃ」
 と、祐介。彼のクロスの生死を握るような相棒たちの去就を、憂えているのだ。世に伝えられたトルシエと中田との不仲の行く末にも悩んできた。中田英寿や小野仲二は、祐介のクロスの成否を決めるボール供給源の仲間であるし、小野はさらに右サイドの祐介が攻め上がったときに、逆の左サイドで守りを固めて支えて欲しい相棒だ。彼等が出場するかどうかで、さらにどう呼応してくれるかで、祐介のプレーは大きく違ってくる。特に中田が出ないとなれば、自分の『次』が例え来たとしても水泡に帰そうかというほどに、彼のパスやキープカを想定した練習に拘ってきた祐介だった。
 (ヒデさんと僕との合作が、得点能力の低い日本チームの右サイドとしては最良のものとしか信じられないから、この合作をイメージするしかない〉。
 『選ばれるには?』というある種の『色気』が絡んで打ち消しても打ち消しても現れてくる他の諸選択との迷いを断ち切っては、この四年間祐介が立ち戻ってきた、自分の原点とも言える想定であった。アスリートとしての祐介の矜恃なのだろうと、鹿住には見えたものだ。
 祐介のこの迷いに対して鹿住は、雑誌で見つけてきた中田のこんな言葉を紹介した。
 『監督に話したいことがあれば話す。仲がいいことだけがすべてじゃない。そうでない人とも、いい仕事をするのがプロだから』、『(僕とトルシエとの)二人の考えが全く違うとわかった。わかりあおうとすると困難だけど、どうしようもなく違うと割り切ればむしろ楽につきあえる』。
 これらを引用した上で鹿住は、駄目を押すようにさらに力説したものだ。
「ヒデだって、『全日本みんなが揃う数少ない今後のテストマッチでは、連携の強化が全てだ』とも、どっかで言ってたから、トルシエの戦略にも、ちゃんと合わせてくるに違いないって」
 祐介の返答はない。そして沈黙。ややあって、「笑っちゃうねぇ、誰と組めるかなんて。四年間代表に出れてもいない者が、よく喋ってるよ。せめてヒデさんと組んでポーランド戦に出られたらなぁ。落とされてもまだ納得が行くんだけど」
 話を打ち切るように唇を歪めたものだ。
 そんな祐介の表情を船底さながらの薄明りの下でもうかがい観ることもできずに、鹿住はバーボンのハーフロックの残りを口に流し込んだ。そしてしかし、すぐに話しだした。
 「もう一度、まとめてみるよ。確認してくから短く応えてな。右サイド選手としての君のライバルは?」
 「いろいろいるけど、まあ明神君、羽戸君」。「トルシエのチーム概念から求められる右サイドの技能、能力と、三人の長短?」。「守備が六~七割、攻撃が三~四割、それと、持久力とスピード。それで、守備は第一が明神、あとの二人は同じくらい。攻撃は、僕、羽戸、明神の順。持久力は明神、羽戸、僕の順で、スピードは明神がちょっと落ちて、あと二人は同じ、かな?」。「それでトルシエは結局、代表右サイドは何人必要と見てる?」。「左サイドがもっと激戦だし、右には他から回してくるかも知れないし、まあ一人か二人」。「その人選について、ここ一年くらいを見た現在までの結論は?」。「明神君は確実、羽戸君が対抗、僕が大穴、まで行ってないけどそう思いたい」。「以上から、君が合宿やテストで何を示せば良いんだった?」。「第一に守備を無難にやって、絶対に攻めの結果を出すこと」。「それについて、自分の現状分析と自信は?」。「守備は意外に二人に近付いてると思うし、去年一年でクロスが急に伸びたから、ライバル二人とは違って絶対に点に絡むんだ、と。ただチームの攻めをフォワードに左サイドだけを加えてやれば良いとか、ヒデさんのパスがないとかなったら、ちょっと苦しい」。
 「なっ、結論をもういっぺんまとめるよ。必死に守備に走り回った上で、練習の紅白戦でも日本代表テストマッチに出られたとしても、絶対に点に絡んでみせる。自分ではどうしようもないことをくよくよするのはかえってハートをだめにするだけだからマイナス、やめにする。結果を求められた時に、今まとめた結論に結び付いて行くようにだけ集中する。そうできるように日常も過ごす。そんな、からっと整理された戦闘性みたいなものを、トルシエは一番観てるんじゃないかなぁ。彼は自己を表現して、主張する人間性が好きで、一種心理学者みたいなとこがあると自他ともに言ってるんだし」
 当時祐介が日本代表を目指して、これ以外に何を考えることがあったろうか。だれと相談して、どれだけ時間を使い、どう話してみても。だからその夜の会話は、どこまで続いたとしても微かな明かりも見えぬままに終わりにするしかないという、そういう性質のものであった。

(後編に続く)
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