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太平洋戦争は「自衛戦争」に非ず   文科系

2018年09月13日 14時04分50秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 太平洋戦争では、 右の人々はずっと「(日本の)自衛戦争論」とか、「日米同罪論」とかを唱えてきた。この戦争を裁いた東京裁判をも戦勝国の一方的裁きと語って、連合国史観、東京裁判史観などと批判してきたのも、こういう太平洋戦争観が原因になっている。今回は、開戦直前の出来事などを振り返りつつ、「自衛戦争論」の誤りを明らかにしてみたい。

1 開戦直前の出来事年表

7月26日 米、在米日本資産の凍結公表
7月28日 日本軍、南部仏印(仏領インドシ ナ)進駐を開始
8月1日 米、日本への石油輸出全面的禁止
9月5日 天皇、翌6日の御前会議に向けて、 戦争を外交に優先せよと命ずる
9月6日 御前会議 「帝国国策遂行要領」
 「概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整」
10月18日 東条内閣(16日近衛内閣退陣 を受けて)
11月5日 御前会議 「帝国国策遂行要領」
 「武力発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整」
11月26日 ハルノート
11月28日 ハルノート、政府内に翻訳配布
12月1日 御前会議
12月8日 真珠湾奇襲攻撃 開始8日午前3 時19分、対米覚書手交4時20分


2 自衛戦争ではないということ

 在米資産凍結、石油輸出禁止とかは、今の北朝鮮に対するのと同様に、日本の中国侵略を批判してなされた「強制制裁」なのである。ただし当時の日本はここまでの制裁に対して既に、北でさえやっていないような反撃を強行してきた。
 1931年満州事変に非難決議を出した当時の国連から、「この非難は不当」として33年には脱退している。
 次には、37年盧溝橋事件、上海戦争から首都・南京占領と、その延長のように年を追う毎に重ねられていった中国南下侵攻への非難も聞き流しにして、41年7月28日にはインドシナ進駐にまで至った。このことに対してアメリカが4日後に課したのが、有名な「日本への石油禁輸措置」である。真珠湾攻撃の約4ヶ月前、1941年8月1日のことだ。


 以降の日本は、南洋の石油を目指して、しゃにむに進むしか道はなくなった。開戦が遅れるほどに、石油の不足から戦争を断念せざるを得なくなり、連合国側の要求を飲まなければならなくなるのが目に見えていたからである。こういう背景からこそ、9月6日の御前会議で「外交よりも開戦優先」と決定されたと言える。外交するふりをして、秘密裏に開戦を急いだわけだった。10月には東條英機軍人内閣成立、11月6日御前会議の「帝国国策遂行要領」で「武力発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整」決定へと続いていく。ハルノートは、そういう日本が自ら選んだ開戦に対して、真珠湾の10日前に届いた国家代表権のない一国務長官の文書に過ぎない。「傲岸不遜の米国!」と、開戦直前に「自衛戦争」の口実として国内戦意高揚に活用されただけのものである。
 


 なお、開戦直前のこの頃、御前会議はこれだけ開かれている。7月2日、9月6日、11月5日、12月1日と。


 最後になるが、当時としても違法な征服戦争をこのように確信犯的に急いだことについて、以下の情勢、事項の論議も必要だろう。アジアに最も多く利権を持っていたイギリスが「アジア植民地どころではない」ドイツに征服されるかというヨーロッパ戦線の影響。および、日本の開戦に見られた数々の違法行為、国際法違反のことである。既に国連を脱退しているとしても、これによって裁かれて当然と言う問題点であるが、今回はこれらには言及しない。
コメント (1)
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