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天皇、開戦決意の史実   文科系

2018年09月11日 01時18分18秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 表記のことについて、右翼の方々はこのブログでもこのように語られてきた。天皇の統治権は形式的なものであって、戦争政策においても実際に何かを決めたというわけではない、と。そのことについてこの本(岩波新書日本近現代史シリーズ10巻のうち、その6「アジア・太平洋戦争」、著者は、吉田裕・一橋大学大学院社会学研究科教授)はどう書いているか。それをまとめてみたい

1 軍事法制上の天皇の位置 「統帥権の独立」

『統帥権とは軍隊に対する指揮・命令の権限のことをいうが、戦前の日本社会では、大日本帝国憲法(明治憲法)第11条の「天皇は陸海軍を統帥す」という規定を根拠に、この統帥権は天皇が直接掌握する独自の大権であり、内閣や議会の関与を許さないものと理解されていた。
 明治憲法上は、立法権、行政権、外交権などの天皇大権は、国務大臣の輔弼(補佐)に基づいて行使されることになっており、統帥権だけが国務大臣の輔弼責任外にあるという明文上の規定は存在しない。それにもかかわらず、天皇親率の軍隊という思想の確立にともない、制度面でも統帥権の独立が実現されてゆく。1878(明治11)年の参謀本部の陸軍省からの独立、1893(明治26)年の軍令部の海軍省からの独立、1900(明治33)年の陸海軍省官制の改正などがそれである』
『一方、参謀本部と軍令部(統帥部と総称)は、国防計画・作戦計画や実際の兵力使用に関する事項などを掌握し、そのトップである参謀総長と軍令部総長は、陸海軍の最高司令官である「大元帥」としての天皇をそれぞれ補佐する幕僚長である。この場合の補佐は、国務大臣の輔弼と区別して輔翼とよばれる。国務大臣は、憲法に規定のある輔弼責任者だが、参謀総長・軍令部総長は、憲法に明文の規定がない存在だからである。
 軍事行政と統帥の二つにまたがる「統帥・軍政混成事項」については陸海軍大臣が管掌したが、国務大臣としての陸海軍大臣も統帥事項には関与できないのが原則であり、参謀本部・軍令部は、陸軍省・海軍省から完全に分立していた。以上が統帥権の独立の実態である』

2 「能動的君主」としての天皇

9月6日決定の「帝国国策遂行要領」
『統帥に関しては、「能動的君主」としての性格は、いっそう明確である。天皇は、参謀総長・軍令部総長が上奏する統帥命令を裁可し、天皇自身の判断で作戦計画の変更を求めることも少なくなかった。また、両総長の行う作戦上奏、戦況上奏などを通じて、重要な軍事情報を入手し、全体の戦局を常に把握していた(山田朗『大元帥 昭和天皇』)。通常、統帥権の独立を盾にして、統帥部は首相や国務大臣に対して、重要な軍事情報を開示しない。陸海軍もまたお互いに対して情報を秘匿する傾向があった。こうしたなかにあって、天皇の下には最高度の軍事情報が集中されていたのである』
 そういう天皇であるから、重大な局面ではきちんと決断、命令をしているのである。本書に上げられたその実例は、9月6日御前会議に向けて、その前日に関係者とその原案を話し合った会話の内容である。まず、6日の御前会議ではどんなことが決まったのか。
『その天皇は、いつ開戦を決意したのか。すでに述べたように、日本が実質的な開戦決定をしたのは、11月5日の御前会議である。しかし、入江昭『太平洋戦争の起源』のように、9月6日説も存在する。この9月6日の御前会議で決定された「帝国国策遂行要領」では、「帝国は自存自衛を全うする為、対米(英欄)戦争を辞せざる決意の下に、概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整す」ること(第1項)、「右に並行して米、英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努」めること(第2項)、そして(中略)、が決められていた』
 さて、この会議の前日に、こういうやりとりがあったと語られていく。

前日9月5日、両総長とのやりとりなど
『よく知られているように、昭和天皇は、御前会議の前日、杉山元参謀総長と水野修身軍令部総長を招致して、対米英戦の勝算について厳しく問い質している。
 また、9月6日の御前会議では、明治天皇の御製(和歌)、「四方の海みな同胞と思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ」を朗読して、過早な開戦決意を戒めている。
 ただし、天皇は断固として開戦に反対していたわけではない。海軍の資料によれば、9月5日の両総長による内奏の際、「若し徒に時日を遷延して足腰立たざるに及びて戦を強ひらるるも最早如何ともなすこと能はざるなり」という永野軍令部総長の説明のすぐ後に、次のようなやりとりがあった(伊藤隆ほか編『高木惣吉 日記と情報(下)』)。

 御上[天皇] よし解つた(御気色和げり)。
 近衛総理 明日の議題を変更致しますか。如何取計ませうか。
 御上 変更に及ばず。


 永野自身の敗戦直後の回想にも、細部は多少異なるものの、「[永野の説明により]御気色和らぎたり。ここに於いて、永野は「原案の一項と二項との順序を変更いたし申すべきや、否や」を奏聞せしが、御上は「それでは原案の順序でよし」とおおせられたり」とある(新名丈夫編『海軍戦争検討会議議事録』)。ここでいう「原案」とは、翌日の御前会議でそのまま決定された「帝国国策遂行要領」の原案のことだが、その第一項は戦争準備の完整を、第二項は外交交渉による問題の解決を規定していた。永野の回想に従えば、その順番を入れ替えて、外交交渉優先の姿勢を明確にするという提案を天皇自身が退けていることになる』
 こうして前記9月6日の「帝国国策遂行要領」は、決定された。つまり、対米交渉よりも戦争準備完整が優先されるようになったのである。続いて10月18日には、それまで対米交渉決裂を避けようと努力してきた近衛内閣が退陣して東条内閣が成立し、11月5日御前会議での開戦決定ということになっていく。この5日御前会議の決定事項とその意味などは、前回までに論じてきた通りである(この11月5日御前会議決定については、一昨日9月9日のエントリー参照)。
コメント (1)
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小説  道連れたち(その3)   文科系

2018年09月11日 00時24分32秒 | 文芸作品
 小学枚五年の春の夕方、団地の花畑のあちこちで毎日のように見かける初老の男に、長い逡巡の未に声をかけた。その場の花のことが挨拶代わりに誰もの口にのぼり、その度に中背痩身のこの男が、多めの白髪を揺らしてなにか頼りなげに返すほほ笑み。遠くまた近くからさりげなくそれを見、聴いていて、心が開いていったような気がした。満開のレンギョウとかの木々が後ろにぎっしりと並び、薄紫のスミレがその前の地面全体をおおって、その間から白が混じったピンクのチューリップが立ちのぞく、六畳一間ほどの横に長い花壇の前が舞台であった。
「すごくきれいだねえ。おじさんが作ったの?」
「ありがとう。おじさんの奥さんがほとんどやったんですよ、おじさんも少しは手伝いましたけどね」
「チューリップの色がすきだしぃ、スミレも変わった色だねえ」
「うん。── 植えた奥さんの方は、もう死んじゃいましたけどね」
 こんなやり取りをきっかけに、ぼつぼつと思い付きつつ問う恒秋、丁寧に応える幸田。その日それがいつの間にか、幸田の家に彼が招かれるという成り行きになったのだそうだ。
 幸田の家は惨状だった。畳や床には、かなり前の葬式の名残らしい物が散らばり、コップ、茶碗、コーヒーやジュースの缶そしてインスタント食品のスチロール容器、割り箸なども転がっている。これは一か所に集めてあるが、薄黒く汚れた下着を中心とした衣類の類い。郵便物はほとんど封も切られずに机の一角からこぼれ落ちている。恒秋は、幸田が彼にしてはきびきびと開けてくれた机の脇の空間にやっと腰を下ろし、あからさまにただ眺めた。
「汚くて悪いですね。何にもする気がおこらないものですから」
 ここまで幸田の語り口に何か引き込まれてきた恒秋に、こんな連想が浮かぶ。
〈母さんのように、外で待っててもらってばたばた片付けるんじゃなく、僕を入れた。こんな凄い所なのに〉
「おじさん、一緒に片付けようか?」
 ふっとそんな声が出て、隣室の流しに立っている幸田の横へ走り、食器洗いを手伝い始める。
「君、上手なんですねぇ?」
「上手ってことないよ。いつも父さんとやってるだけ」
「父さんが教えるんですか?」
「教えるってことないよ、こんなこと。母さんが看護婦だしぃ、このごろまた、試験勉強で忙しいみたいだしぃ」
「看護婦さんって、試験があるんですか?」
「病院で検査やってる父さんだってあるよ。おじさんは、仕事なにやってるの?」
「今は定年退職。前は新幹線作ってたんですけどね」
「すごい! 大きな工場だねぇ?」
「工場も行くけどね、そこでどんなふうに作ってもらうかという、設計の研究する所」
「じゃあ試験あるでしょう?」
「試験、………はないよ。おじさんが良くできるからかなぁ?」
「ふーん、よく勉強したんだ」
「うん、学生の時からね。おじさん、ほんとうによく勉強したよ」
「じゃ、いい大学入ったんだ」
「うん。トウダイって知ってる?」
「すっごい! それで、新幹線の設計なんて、ほんとにすごいねぇ」
「すごくないよ。今はこんなぐちゃぐちゃな所で寝て、起きてる。何にもできない人だと奥さんに言われてたけど、奥さんがいなくなってそれがほんとによく分かったという、だめな人ですよ」
「花畑作りは上手だよ」
「あれはね、定年退職の頃から奥さんがほんとに一生懸命教えてくれて、僕も一生懸命習ったんです。毎日、あれだけやってました。今はもっと、花畑だになっちゃいましたけどね。『箸は?』と訊きそうになって、『自分で持ってきてよ』とも言われないんだと、はっと気付く。それで、そこら辺のを何回も使っちゃう」

 この日から二人の花畑作りを中心に置いた付き合いが始まり、幸田はいつも、恒秋をただならぬ態度で歓待したらしい。対する恒秋の態度はと言えば、こんな言葉で語られたのだった。
「幸田さん所に通うのが、なんかすごく好きだなーみたいな気持にどんどんなってきたんだよ」
 そしてその夏、作業途中のにわか雨を、団地集会所の幅広い軒先に避けたある夕方。しゃがみ込んだ恒秋の目の前に、一つの光景があった。アリが緑色のコガネムシに群がり、断続的に動かしている。それも気付かないほどにほんの僅かずつ。鈍く光る羽根覆いがひしゃげて傾いたその甲虫は、じわっじわっと黙って引かれていく。この光景をあれこれと暫く観察していた恒秋の耳元近くに、不意に幸田のつぶやきが響いた。
「うちの奥さんも、私たちも、結局このムシとおんなじようなもんですかねぇ」
〈人間とムシはちがうでしょう〉、一瞬、そう返しかけて、詰まってしまった恒秋。〈コガネムシでも、一人ぼっちは寂しいだろうし、嫌なことは嫌なんだろう〉と考え付いたのである。幸田を振り返って素直にたずねてみた。
「どっか違う所もあるんでしょう?」
 幸田は柔らかい顔を恒秋に向け、ゆっくりと虫に戻しながら、応えた。
「自分が死ぬことを思い出しながら日々生きているのは、人間だけじゃないですかねぇ。だから人間は虫より寂しがりやなんだ。この寂しさが強い人は、虫よりは多少頑張って生きてみる。奥さんが僕と一緒に花畑をやろうとしたのは、多分そういうことですよ。でも、気付いてみたら、日々こんなにもやりたいことがないもんですかねぇ?」
 この辺以降のその日の会話は、恒秋の記憶から消え去っているらしい。ほとんど幸田の独白だったようだが。ただこの日の独白は、この人と花畑をやり続けていきたいという強い印象だけを、恒秋の記憶の中に残したのだそうだ。

 話がさらに続き一つの段落を迎えたとき、恒秋の声の調子が変わって、こんな解説が加えられた。
 幸田とのこれらの会話などは、当時の自分にどれだけ分かっていただろうか。しかし人は、成長期の自分にとって全く新しい世界と親しく接触したものを、十分には分からないからこそ覚えているということもあるものだ。また、そういう記憶が以降に、意外なほど己の世界を押し広げていくということもある。

 朝子の方はと言えばその前後から、恒秋と幸田のつながり以上に、幸田夫婦に照らし合わせて様々な夫婦の形をあれこれと思い描いていた。職業の中で出会ったいろんな「配偶者の死」を思い起こしながら。
 たしか病院の統計にあったけれど、妻が亡くなった後の夫のストレスは日本の場合、凄く大きいものらしい。他のどんな国の夫たちのストレスと比較しても。逆に、夫が亡くなった時の日本の妻の方は、平均すればそれほどでもないという。そして幸田の花畑作りは、そのストレスの発散場所になったようだし、この唯一の発散場所を彼に与えたのがまた彼の亡妻である。それも多年月の努力を重ねた末のことだった。別の新聞統計で「女七十代以上で、夫と暮らしていたいと応える人は僅か三人に一人」で、「妻と暮らしていたいという夫は三人に二人」に比べて異常に少ないとあったのも思い出す。幸田の妻ももちろんこちらに入るのだろう。その妻の側が努力して二人で楽しむものをやっと作り上げたまさにその頃に、その妻が亡くなった。幸田はその唯一の楽しみを今度は一人で追い求め続けるしか、やることがなかったようだ。そこに、恒秋が加わつてきた。「すごく好きだなーみたいな気持にどんどんなってきた」と恒秋が述懐したのは、こういったこと全てが関わった成り行きだったのではないか。恒秋と幸田がこの様相をどれだけ意識していたかは分からない。しかし、短くはあったがただならぬ感じを抱かせる二人の歴史は、こんな背景をお互いに少しずつ認めあうことによってどんどん深められていったものだったのではないのか?
「ツネ君、ちょっとないようなことができたんだねぇ」
 二人それぞれの暫くの沈黙の後、朝子が溜め息のように声を漏らした。
「うん、ほんとにそう思う。最後の頃、幸田さん、こんなことも言ってた。
『歳を取ったら全てを失っていく。仕事も、体力も、ものを感じる感性も、さらには視覚や聴覚等の五感でさえも。このように何かを亡くしたと思い知る度に、人は己の死を思う寂しい時を持つ。そんな時、若い頃から所有しまたは関わった全てのものを阿吽の呼吸で語り合える相手は配偶者しかいない。この語り合いに、愛憎両様の形や、あたかも空気に対するように意識されない形があるにしても。こういう真実の大切さを相手の死後にしか気付かないということは、またなんと愚かなことであろうか。この事実に僕が打ちのめされていた頃、僕は君に出会った。これから大人に育っていくという君を与えられた。………本当に幸せなことだった。ありがとう』。」
「それって、遺言の文章でしょう、私にも見せてよ?」
「いや、幸田さんのいたずらかも知れないんだけど、誰か一人にしか見せちゃいけないんだって」
 朝子はすぐに、咲枚の人懐っこいほほ笑みを思い浮かべた。すると、恒秋の少し慌てた言葉が続く。「まだ、誰にも見せてないんだ。母さんにだってもちろん見せたいんだよ。男みたいな人だとは思うけど、幸田さん流の言い方をすれば、僕の人生にとって母さんと僕だけのものは山ほどある」
〈咲枚に見せるのが良い〉、已にそう言い聞かせている自分を、朝子は認めた。自分には恒男がいると、改めて感じていたからかもしれない。ただ、俊司ともまだやめられはしないだろうとふっと考え込んでいる自分にも、気付いたのだが。

 大きい南窓にも、秋の陽が暮れ姶めている。朝子にとっても、あっという間の一日であった。


(終わり)  2000年1月、所属同人誌から
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