いつか標記のエントリーを書いてみたいと、目論んできた。新聞はやはり公器という性格があり、読者がそう思って信頼しているという点もあるからだ。ただし、純粋な公器などは、政治的中立がありえないように存在しないと、これは世界の常識だろう。もっとも、NHKも含めた昨今日本のテレビとか一部大新聞のように安倍政権べったりの姿勢が目立ちすぎては、公共放送とか公器などとはとうてい言えないと考える。民法などはすでに、スポンサーの意向を体現している電通などの威力から、政治的中立などはかなぐり捨てているはずだ。マスコミにも、経営、経済的基盤問題がついて回り、金を持っている団体に買われていたり、その政治的意向を忖度するようになっていたりという事だろう。
さて、感想、評価の観点について一言。公器の要件であるいわゆる公正を、普遍人間的観点ということで意識している。ただし、文化面、地方記事面などはこの点の理解がとても難しい。文化には趣味性が関わるし、地方新聞には地方性も大事だろうからだ。等々と述べてくると大変面倒くさい事になってくるのだが、今回はまー手始めに、公正を頭に置いた上で日頃強く感じて来た事を羅列するに留める。
・地方記事が4面と多すぎて、国際記事が少なすぎる。後者は1面と「総合面」の一部が当てられるだけだ。よって国際記事は、いわゆるアクセス報道、それも地域も内容も偏った「お定まり」がほとんどで、調査報道が少なく、政経、文化などすべてがグローバルになっている時代に甚だしく遅れている。僕は、ホームステーなども含めて世界20を越える国を訪ねた事があるが、これから世界に出て行きたいという若者には、この新聞は先ずとうてい役には立たない。国際的教養、視野、思考力などと縁遠い情報の質量ということだ。
・文化面がまた、古すぎると思う。スポーツは野球面ばかりで、例えば今や野球と同じようにやる人も人気も多いサッカー記事は野球の4分の1も無いのではないか。やる人の多さでは圧倒的に差がある(場所中の)相撲に比べてさえ、サッカーの扱いは小さなものだ。
・サッカーもそうだが、登山とかランニングとか、生涯を通じてやる人が多い分野を何故もっと重視しないのだろう。ここでも「観るスポーツ」という「文化消費者の観点」が主で、「やるスポーツ」の観点が少ないような気がするのである。これは、国民皆スポーツ、生涯スポーツなどなどという公共的観点にも甚だしく欠けているということではないか。
・宗教や芸能記事も仏教、歌舞伎、能楽など、日本の伝統を踏まえているやの古くさい記事を一体誰が読んでいるのか。そしてここでも、文化の消費という観点が主で、「やる人」つまり文化の生活化の観点がとても弱いと思う。「古くさい趣味を持った古くさい文化消費記者の飯の種、つまり住み処」と皮肉りたくもなる。
・これはだめ押しだが、スポーツも芸術ももはや観る時代ではなく、やる時代という観点がもっと必要なのではないか。ということでいえば、専門家とかプロとか、競技スポーツを中心に鑑賞する立場から扱うやり方は公器としてはなはだ大変不十分というべきだ。まるで興業主の立場の記事であると述べたら言い過ぎになるだろうか。言い換えれば「中日新聞主催または後援」が文化記事編集の表面に出過ぎている? 「地方スポーツ結果報告」などが細々と二面も出てくるときがあるのは、そういうことの結果とも思われる。
さて、感想、評価の観点について一言。公器の要件であるいわゆる公正を、普遍人間的観点ということで意識している。ただし、文化面、地方記事面などはこの点の理解がとても難しい。文化には趣味性が関わるし、地方新聞には地方性も大事だろうからだ。等々と述べてくると大変面倒くさい事になってくるのだが、今回はまー手始めに、公正を頭に置いた上で日頃強く感じて来た事を羅列するに留める。
・地方記事が4面と多すぎて、国際記事が少なすぎる。後者は1面と「総合面」の一部が当てられるだけだ。よって国際記事は、いわゆるアクセス報道、それも地域も内容も偏った「お定まり」がほとんどで、調査報道が少なく、政経、文化などすべてがグローバルになっている時代に甚だしく遅れている。僕は、ホームステーなども含めて世界20を越える国を訪ねた事があるが、これから世界に出て行きたいという若者には、この新聞は先ずとうてい役には立たない。国際的教養、視野、思考力などと縁遠い情報の質量ということだ。
・文化面がまた、古すぎると思う。スポーツは野球面ばかりで、例えば今や野球と同じようにやる人も人気も多いサッカー記事は野球の4分の1も無いのではないか。やる人の多さでは圧倒的に差がある(場所中の)相撲に比べてさえ、サッカーの扱いは小さなものだ。
・サッカーもそうだが、登山とかランニングとか、生涯を通じてやる人が多い分野を何故もっと重視しないのだろう。ここでも「観るスポーツ」という「文化消費者の観点」が主で、「やるスポーツ」の観点が少ないような気がするのである。これは、国民皆スポーツ、生涯スポーツなどなどという公共的観点にも甚だしく欠けているということではないか。
・宗教や芸能記事も仏教、歌舞伎、能楽など、日本の伝統を踏まえているやの古くさい記事を一体誰が読んでいるのか。そしてここでも、文化の消費という観点が主で、「やる人」つまり文化の生活化の観点がとても弱いと思う。「古くさい趣味を持った古くさい文化消費記者の飯の種、つまり住み処」と皮肉りたくもなる。
・これはだめ押しだが、スポーツも芸術ももはや観る時代ではなく、やる時代という観点がもっと必要なのではないか。ということでいえば、専門家とかプロとか、競技スポーツを中心に鑑賞する立場から扱うやり方は公器としてはなはだ大変不十分というべきだ。まるで興業主の立場の記事であると述べたら言い過ぎになるだろうか。言い換えれば「中日新聞主催または後援」が文化記事編集の表面に出過ぎている? 「地方スポーツ結果報告」などが細々と二面も出てくるときがあるのは、そういうことの結果とも思われる。