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随筆  俺の「自転車」   文科系

2018年11月05日 11時29分30秒 | スポーツ
 今七十七になる俺は、週に三回ほど各十キロ近くランニングしている。その話が出たり、ダブルの礼服を着る機会があったりする時、連れ合いがよく口に出す言葉がある。
「全部、自転車のおかげだよね」。
 この礼服は、三十一歳の時、弟の結婚式のために生地選びまでして仕立て上げたカシミアドスキンとやらの特上物である。なんせ、俺の人生初めてにして唯一の仮縫い付きフル・オーダー・メイド。これがどうやら一生着られるというのは、使い込んだ身の回り品に愛着を感じる質としてはこの上ない幸せの一つである。よほど生地が良いらしく、何回もクリーニングに出しているのに、未だに新品と変わらないとは、着るたびに感じること。とこんなことさえも、「生涯自転車」の一因になっているのだ。

 初めて乗ったのは小学校中学年のころ。子供用などはない頃だから、大人の自転車に「三角乗り」だった。自転車の前三角に右足を突っ込んで右ペダルに乗せ、両ペダルと両ハンドル握りの四点接触だけで漕いでいく乗り方である。以降先ず、中高の通学が自転車。家から五キロほど離れた中高一貫校だったからだ。やはり五キロほど離れた大学に入学しても自転車通学から、間もなく始まった今の連れ合いとのほぼ毎日のデイトもいつも自転車を引っ張ったり、相乗りしたり。
 上の息子が小学生になって、子どもとのサイクリングが始まった。下の娘が中学年になったころには、暗い内からスタートした正月元旦家族サイクリングも五年ほどは続いたし、近所の子ら十人ほどを引き連れて天白川をほぼ最上流まで極めたこともあった。当時の我が家のすぐ近くを流れていた子どもらお馴染みの川だったからだが、俺が許可を出した時には、文字通り我先にと身体を揺らせながらどんどん追い越していった、あの光景! 
 この頃を含む四十代は、片道九キロの自転車通勤があった。これをロードレーサーで全速力したのだから、五十になっても体力は普通の二十代だ。自転車を正しく全速力させれば、腕っ節も強くなるのである。生涯最長の一日サイクリング距離を弾き出したのもころ。知多半島から伊良湖岬先端までのフェリーを遣った三河湾一周の最後は豊橋から名古屋まで国道一号線の苦労も加えて、実走行距離は百七十キロ。
 その頃PTAバレーにスカウトされて娘の中学卒業までこれが続けられたのも、その後四十八歳でテニスクラブに入門できたのも、この自転車通勤のおかげと振り返ったものだ。

さて、五十六歳の時に作ってもらった現在の愛車は、今や二十年経ったビンテージ物になった。愛知県内は矢作川の東向こうの山岳地帯を除いてほぼどこへも踏破して故障もないという、軽くてしなやかな品だ。前三角のフレーム・チューブなどは非常に薄くて軽くしてあるのに、トリプル・バテッドと言ってその両端と真ん中だけは厚めにして普通以上の強度に仕上げてある。いくぶん紫がかった青一色の車体。赤っぽい茶色のハンドル・バー・テープは最近新調した英国ブルックス社のもの。このロードレーサーが、先日初めての体験をした。大の仲良しの孫・ハーちゃん八歳と、初めて十五キロほどのツーリングに出かけたのである。その日に彼女が乗り換えたばかりの大きめの自転車がよほど身体に合っていたかして、走ること走ること! 「軽い! 速い、速い!」の歓声に俺の速度メーターを見ると二十三キロとか。セーブの大声を掛け通しの半日になった。
「じいじはゆっくり漕いでるのに、なんでそんなに速いの?」、「それはね、(かくかくしかじか)」という説明も本当に分かったかどうか。そして、こんな返事が返ってきたのが、俺にとってどれだけ幸せなことだったか! 「私もいつかそういう自転車買ってもらう!」と、そんなこんなからこの月内にもう二度ほどハーちゃんとのサイクリングをやることになった。二人で片道二十キロ弱の「芋掘り行」が一回、ハーちゃんの学童保育の友人父子と四人のがもう一度。前者は、農業をやっている僕の友人のご厚意で宿泊までお世話になるのだが、彼にも六歳の女のお孫さんが同居していて、今から楽しみにしているとか。

 ランニングとサイクリングの楽しさは、俺の場合兄弟みたいなものだ。その日のフォーム、リズム、気候諸条件などが身体各部の体力にぴったりと合った時には、各部協調しあった最小限の力で気持ちよくどこまでも進んで行けるというような。そして、そんな時には身体各部自身が喜び合っているとでもいうような。自分の視覚や聴覚の芸術ならぬ、自分の身体感覚が感じ導く自作自演プラス鑑賞付きの、誰にでも出来る身体芸術である。
残り少なくなった人生だが、まだまだこんな場面を作り続けたい。そして、ランナーで居られる間は、続けられると目論んできた。自転車が五九歳にしてランを生み、退職後はランが自転車を支えて、まだまだ続いていく俺の活動年齢。
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