九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

随筆 “全体主義的感性”    文科系

2019年02月13日 13時10分49秒 | 文芸作品
 高校時代のある友人と昨日偶然会った時に、孫の教育で悩んでいるらしく、こんな話がいきなり堰を切ったように出された。同時にそこにいた同期女性の一人が小中教員だったからなのだ。
「近ごろの学校教育はどうなっているのかな。どうも戦後の米国流個人主義が日本人を駄目にしているように感じる。教育勅語を読んでみたけど、結構いーこと書いてあるよね」
 話はそこからどうも、個人に義務や道徳を強調し、教え込む必要というような話に移っていった。
〈なんだか、安倍首相と同じだなー〉、僕は憂鬱になってしまった。
 そうなのだ、社会に不公正、犯罪、不道徳などが多くなると、誰かが上からタガを締めるべきというよくある発想なのである。誰が、どのようにタガを……が不十分なら当然、旧ソ連や北のような全体主義的「秩序」に繋がる発想でもある。人の内面が荒れる現実的な原因をきちんと問うていない場合にすぐに「心」が原因になって、ただ心を締め直せという安易な発想が出てくるとも言える。こういう人は、日本がまだ世界一安全な先進大国に辛うじて留まっているという点や、よってこういう世界的な社会悪傾向には世界的な原因があろうとも、観ようとはしていないのである。原因を日本国内だけに求めている口調がその証拠になる。そこで一計を案じた僕のある質問から、こんな討論になった。

「世界も荒れてるから、当分戦争は無くせないよね?」
「なに、君は戦争は無くせると思っているのか?」
「当然そうだよ。無くせない理由がない。『絶対に』ね」
「戦争は絶対になくならんよ。夫婦ゲンカもなくならんようにね。動物だってそうだし」
「やっぱりそう語ったね。ならば言うが、動物や人間夫婦の争いと、部族や国がやる戦争なんかが全部同じ原因で起こるという意味で、これらの背後に同じ本質を想定するのは馬鹿げている。そういう考え方は、既に誤りとされた社会ダーウィニズムと言うんだよ」

「君は絶対にと言ったね? 絶対の真理なんて語ることこそ、馬鹿げている!」
 そんな言葉を捨て台詞に吐き出して顔も真っ赤にした彼、向こうへ行ってしまわれた。ご自分も「戦争は絶対に無くならん」と語られたのは、お忘れらしい。僕もそうなのだが、こういうお方も短気なのである。

 さて僕のこの論法は、十年やって来たブログの数々の論争体験から学んだもの。個人同様タガが必要に見える国にも自然に戦争が想定され易い時代というものがあって、国同士の生存競争こそ国家社会の最大事と主張する人々が増えてくる訳だ。
 さて、ここが大事な所なのだが、「上からタガを締めろ」とか「国家の最大事は戦争、軍備である」と感じ、考える人はほぼ必ず政治的には右の方と僕は体験してきた。つまり僕のような「憲法九条派」がこういう人に他のどんな現実的政治論議を持ちかけても何の共通項もなくただ平行線に終わる、と。言い換えればこういうこと。いったん上記二点のような相手の土俵に入ってこれ自身を決着付けておかなければ、他のどんな「現実的」反論もすれ違うだけと体験してきたのである。個人の悪や不道徳などがなによりもまず個人の心の中から生まれると観るなら上から心を変えるしかなく、そんな時代の国と国との間では国連のような調整機関は無力と観て戦争も覚悟しなければならない理屈だ。
 この二つ(心のタガと、社会ダーウィニズム的「闘争」)は、いずれもそれぞれの問題、その原因を現実の中に問うて、現実を変えるという道が見えなくなる考え方なのだ。それどころか、現実は悪、心がそれに抗していかねばならないという感じ方、「思想」と述べても良いだろう。いずれも、全体主義に結びつく考え方だという自覚は皆無なのであるが、僕は結びつくと考えている。ヒトラーも東條も、それぞれ優秀な民族が乱れた世界、人類を鍛え直すという意気込みを国民に徹底したと記憶する。そのためにこそこの戦争を聖戦として行うという決意表明、大量宣伝とともに。

 ちなみに、あの時代も今もその現実世界は同じこういったものと、僕は観ている。二九年の世界恐慌から、弱肉強食競争へ。強食から見たら子供のような弱肉を容易に蹴倒していける世界になって、普通の人々は生きるためにどんどん道徳など構っていられなくなっていく。今の強食がまた、普通の日本マスコミは報じないのだが、桁外れである。アメリカ金融の一年のボーナスを例に取ってみよう。二〇〇六年の投資銀行ゴールドマンの優秀従業員五〇名は一人最低一七億円もらった。二〇〇八年全米社長報酬トップ・モトローラ社長は、一億四四〇万ドル(約百億円」)のボーナスを貰った。これで驚いてはいけない。二〇一一年に出たある経済書の中には、こんな記述さえある。

『今でも、米国でよく槍玉に挙げられるのは、雑誌の個人報酬ランキングのナンバーワンあるいはナンバーツーになるウォルト・ディズニー社社長のアイズナー(数年前に、ストック・オプションも含めて五億七五〇〇万ドルという記録的な額を得た)……』(ロナルド・ドーア著、中公新書「金融が乗っ取る世界経済 二一世紀の憂鬱」P一四七)。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太田光への安倍応答「戦争論」  文科系

2019年02月13日 12時59分46秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 一昨日エントリーした爆笑問題・太田光と安倍首相との対談さわり部分は、こんな論議から始まった。
『話は、日本国憲法前文の「日本国民は・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、(われらの安全と生存を保持しようと決意した)」を読み上げた安倍が、これを否定して見せた所から始まった。これを「他力本願ですよ、ベトナム戦争、イラク戦争など戦争はいっぱい起こっているのに・・・」と切って捨てた発言をしたことによって』
 これに対して僕は、こんな批判を書いた。
『また、憲法前文への「他力本願」批判も、その根拠が社会ダーウィニズム丸出しの「戦争現実論」とあっては、俗っぽすぎて何の人間らしい政治理念も感じられないものだ。「戦争はない方がよい」と口では言いながら、「戦争現実論」の例として彼があげたのが、ベトナムとイラク。いずれもアメリカの戦争で、そのアメリカに揉み手で付いて行く安倍だから、この「戦争現実論」「ない方がよい」もいずれも口だけよりももっと悪い。
 なんのことはない、嘘の理由で始まったイラク戦争開始判断を「間違っていなかった」と肯定してみせることによって、自らが『戦争現実(論)』を作る側に立っているのである。だから彼の社会ダーウィニズム風戦争論は、日本の首相という重要な地位にある自らがそういう現実を作っているという自覚も皆無だと示しているわけだ。』

 安倍も捕らわれている社会ダーウィニズムという日本人にも多い「戦争現実論」を紹介し、批判を加えたいと思う。

 社会ダーウィニズムという今は誤りだとされた社会理論は、こういうものだ。
「動物は争うもの、人間もその国家も同じだろう。そうやって、生物は己自身を進化させてきたのであるから」
 この理論で言えば動物の生存競争はもちろん、夫婦ゲンカも国同士の戦争も同じ(本質の)ものになる。そして、夫婦ゲンカは永遠になくならないから、戦争もそうだろうと、大威張りで確信できるわけだ。

『動物の争いは永遠になくならないのだから、人間も永遠に争うものである』
『人間は争うものだから、国家の戦争も無くならない』


 これが、ネット右翼諸氏の世界と政治を観る無意識のこれも含めた理論ならぬ信念なのである。対案はこれしかない。戦争を少なくしてきた人類史を示すことだ。
①例えば、ここでも書評を書いた世界的ベストセラー「サピエンス全史」には、こんな事が書いてある。
 近代国家までの部族国では異民族は動物であって人類ではなかった。戦争による征服、大量殺人はこうして悪どころか、神の栄光にも等しいもの。戦争が少なくとも「必要悪」に替わったのは、近代国家ができて民主主義が生まれ、さらには、人種差別に対する人類平等が少なくとも建前としては認められるようになってからである。
②二十世紀には人類史上初めて戦争違法化に向けた国際法、国際組織も生まれた。これは①のような人類史の流れを受けたものであり、人類史上初めて地球から戦争を無くそうと諸国家が意思一致した事の意味は限りなく大きい。国連憲章の冒頭文章も、二つの世界大戦の反省から始まっている。
『われら連合国の人民は、
われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、
基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し』

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする