旅の思い出振り返り。ルーヴル美術館は迷宮。鑑賞ツアーのあと、一人で迷子にならずにホテルに帰れるかしらと不安でした。お寿司らしきものを売っているお店でお昼をたべたあとまたツアーで訪れた部屋を見学したかな。広すぎて出口がわかんなくなりそうでおそろしかったです。ガイドブックを読み返してみるとルーヴル美術館の入口は三つ。それぞれ地下鉄の駅と直結していたと思います。どこから出るかによって帰るルートが違ってくるので大変。入った時と同様ピラミッド口から出て、シャンゼリゼ通りを歩きながら帰ったんだったかな。この写真はどの入口付近だったか忘れましたが、城砦として使われたルーヴルの歴史を物語っています。恋人の名前が刻まれているというガイドさんの説明だったかな。こんな解像度の低い写真ではわからないですね。
長文になりますが、一気に引用してみたいと思います。よろしかったらお読みください。
(小池寿子・芸術新潮編集部『一日で鑑賞するルーヴル美術館』新潮社、2006年発行より)
12世紀の終わりごろ、パリはセ―ヌ河をはさんで南北に広がり、ヨーロッパでも有数の都市に発展していました。時の王、フィリップニ世は十字軍遠征で首都を離れるにあたり、この街を全長5キ回の堅牢な市壁で囲うよう命じます。しかし東西に流れるセーヌ河が中心部を貫通しているかぎり、街全体をぐるりと壁で囲い込むことはできない。そこで1190年頃、外敵の侵入にそなえ、セーヌ河の出入りを監視するための城砦が築かれました。これがルーヴルのはじまり。語源には諸説あるようです。サクソン語の「ロヴェル」とか、ラテン語の「 ルーパラ」とか。前者は城砦、後者は狼狩り小屋の意。当時、ルーヴル周辺には狼が出没したんですね。
城砦は実用に徹したシンプルなものでした。10本の円塔を配した城壁は78×72 2メートルのほぼ正方形。中心には直径15メートル、高さ30メートルの天守塔が聳え立ち、お王室の文書や宝物も納められていた。このルーヴル城が今のシュリー翼(の一部) の原型。同翼半地下でかつての円塔や城壁の土台部分が見られます。
13世紀、お城は安泰でした。逆に言うと、城砦としての意味が薄れていく。フィリップニ世の孫、ルイ九世はシテ島の暑さと悪臭を逃れるためループル城を夏の離宮として改装 し、さらにその孫の美貌王フィリップ四世の時代には、しばしば重要な会議も開かれるようになりました。 庭園も美しく整えられたとか。
14世紀、ルーブルは城砦から宮殿へと華やかな転身を遂げます。1364年、賢明王シャルル五世が無骨なルーヴルをおとぎ話のお城のように改築しだしたのです。円塔のひとつには貴重な写本を973冊も集めた王の図書館がつくられ、これはのちにフランス国立図書館の基礎となりました。
16世紀半ば、ルーヴル宮は復活します。1546年、フランソワ一世が建築家のビエール・ レスコーに命じて中世風の古い建物を取りこわし、新たにルネサンス風の宮殿をつくらせました。王は完成を見ずに亡くなりましたが、息子のアンリニ世が工事を続け、1550年に完成。舞踏会や公式会議に使用された1階の大広間は、多少の改造はあるものの、現在もシュリー翼1階にその姿をとどめています。
フランソワ一世は美術作品の大コレクターでした。ロワール河畔のお城に晩年のレオナルド・ ダ・ ヴインチを住まわせ、画家の没後に《モナ・リザ》を購入し、パリ郊外のフォンテーヌブロー宮に飾りました。他にもラファエロやティツィアーノらの名画を蒐め、ルーヴル・コレクションの基礎を築いたのです。
1559年、アンリニ世が馬上槍試合で急死すると、妃のカトリーヌ・ド・メディシスが摂政とLて実権を握ります。彼女は1564年から、かつて瓦工場(チュイルリーがあった場所)に宮殿をつくりはじめます。が、おりしも宗教戦争のまっただなか。新教徒がパリで大虐殺される事件を契機に、チュイルリー宮の工事は中断され、ルーヴル宮でも4人のカトリック同盟員が絞首刑になりました。
宗教戦争の騒乱にピリオドを打ったのはブルボン朝の始祖、アンリ四世でした。カトリックに改宗することで市民を懐柔した陽気で女好きの王は、1594年、ルーヴルの大改造に着手します。一番の懸案だったのはルーブル宮と、瓦工場跡にできたチュイルリー宮の各階を、長大な廊下でつないでしまうこと。今日、セーヌ河に沿ってえんえんとつづくドゥノン翼2階のあのグランド・ギャラリーは、こうして出来上がったのです。アンリ四世在位当時は、1階にギリシア・ローマ彫刻がならべられ、1階と中2階が画家、彫刻家、彫金細工師、家具職人たちの制作活動の場になったとか。王はまた、方形のルーヴル宮の各辺を2倍に拡張する大構想を練りました。
ルイ十三世が大構想を受けつぎ、リシュリュー枢機卿とともに、工事を進めます。その名をリシュリュー翼に残すこの宰相は、みずから詩作や劇作もする文化人で、絵画彫刻の大コレクター。アカデミー・ フランセーズをつくったのも彼です。1643年にルイ十三世が没すると、フロンドの乱がおこり、幼いルイ十四世はパリを脱出。当然ながらルーブル宮の拡張工事は中断されてしまいました。
若き太陽王がルーヴルに戻ったのは1654年のこと。さっそく建築家のルイ・ル・ ヴォーに命じて、まずは母后の居室を改造します。ロマネッリによる絢爛豪華な天丼画が描かれた部屋は、現在も「アンヌ・ド ートリッシュの夏の御座所」と呼ばれ、ローマ彫刻の展示室(ドゥノン翼1階22〜26番展示室)になっ ています。 また1658年、カリアティードの間ではモリエールの「ニコメード」と「恋する博士」が上演されました。チュ イルリー宮では、1000人を収容できるヨーロッパ最大の劇場もつくられていますが、音響効果がひどく、すぐお払い箱に。
1660年、満を持したルイ十四世がルーブル宮の拡張に本格的に挑みます。いまだのこる中世の城砦部分を取り壊し、周辺の家屋を立退かせ、方形の王宮を増築。今のシュリー翼が姿をあらわしはじめました。また、その東側部分をあらたな正面玄関にするため、王は建築家たちにデザインを競わせます。が、いちどはイタリアバロック建築の巨匠、ベルニーニの案に決定し、1665年に工事もはじまったのに、なぜか王は意をひるがえしてしまう。結局、玄関の意匠はフランス人建築家たちによる列柱翼(コロナード)のデザインに変更されました。フランス人建築家たちのイタリア人建築家に対する嫉妬や嫌がらせがあったとも言われています。」
一気に引用するのは長すぎるので続きは明日にします。明日はかかりつけ医で朝早くに胃のレントゲン検査と血液検査。部屋を早くでるの一か月ぶりだし、部屋をでるとき不安がおそってくるし、部屋を出るの、廊下が狭いので斜めお向かいに丸わかりだし、終わっても部屋に戻れないので居場所がないし、意の検査するの4年ぶりなので、キノコがたくさんはえているだけですめばいいけど心配だし、いくつかの意味できつくって大変な一日が待っています。今日は久しぶりに美容院ですっきりしまた帰りに寄り道中。帰りたいけど帰りたくない部屋にさっさと帰らねばです。
長文になりますが、一気に引用してみたいと思います。よろしかったらお読みください。
(小池寿子・芸術新潮編集部『一日で鑑賞するルーヴル美術館』新潮社、2006年発行より)
12世紀の終わりごろ、パリはセ―ヌ河をはさんで南北に広がり、ヨーロッパでも有数の都市に発展していました。時の王、フィリップニ世は十字軍遠征で首都を離れるにあたり、この街を全長5キ回の堅牢な市壁で囲うよう命じます。しかし東西に流れるセーヌ河が中心部を貫通しているかぎり、街全体をぐるりと壁で囲い込むことはできない。そこで1190年頃、外敵の侵入にそなえ、セーヌ河の出入りを監視するための城砦が築かれました。これがルーヴルのはじまり。語源には諸説あるようです。サクソン語の「ロヴェル」とか、ラテン語の「 ルーパラ」とか。前者は城砦、後者は狼狩り小屋の意。当時、ルーヴル周辺には狼が出没したんですね。
城砦は実用に徹したシンプルなものでした。10本の円塔を配した城壁は78×72 2メートルのほぼ正方形。中心には直径15メートル、高さ30メートルの天守塔が聳え立ち、お王室の文書や宝物も納められていた。このルーヴル城が今のシュリー翼(の一部) の原型。同翼半地下でかつての円塔や城壁の土台部分が見られます。
13世紀、お城は安泰でした。逆に言うと、城砦としての意味が薄れていく。フィリップニ世の孫、ルイ九世はシテ島の暑さと悪臭を逃れるためループル城を夏の離宮として改装 し、さらにその孫の美貌王フィリップ四世の時代には、しばしば重要な会議も開かれるようになりました。 庭園も美しく整えられたとか。
14世紀、ルーブルは城砦から宮殿へと華やかな転身を遂げます。1364年、賢明王シャルル五世が無骨なルーヴルをおとぎ話のお城のように改築しだしたのです。円塔のひとつには貴重な写本を973冊も集めた王の図書館がつくられ、これはのちにフランス国立図書館の基礎となりました。
16世紀半ば、ルーヴル宮は復活します。1546年、フランソワ一世が建築家のビエール・ レスコーに命じて中世風の古い建物を取りこわし、新たにルネサンス風の宮殿をつくらせました。王は完成を見ずに亡くなりましたが、息子のアンリニ世が工事を続け、1550年に完成。舞踏会や公式会議に使用された1階の大広間は、多少の改造はあるものの、現在もシュリー翼1階にその姿をとどめています。
フランソワ一世は美術作品の大コレクターでした。ロワール河畔のお城に晩年のレオナルド・ ダ・ ヴインチを住まわせ、画家の没後に《モナ・リザ》を購入し、パリ郊外のフォンテーヌブロー宮に飾りました。他にもラファエロやティツィアーノらの名画を蒐め、ルーヴル・コレクションの基礎を築いたのです。
1559年、アンリニ世が馬上槍試合で急死すると、妃のカトリーヌ・ド・メディシスが摂政とLて実権を握ります。彼女は1564年から、かつて瓦工場(チュイルリーがあった場所)に宮殿をつくりはじめます。が、おりしも宗教戦争のまっただなか。新教徒がパリで大虐殺される事件を契機に、チュイルリー宮の工事は中断され、ルーヴル宮でも4人のカトリック同盟員が絞首刑になりました。
宗教戦争の騒乱にピリオドを打ったのはブルボン朝の始祖、アンリ四世でした。カトリックに改宗することで市民を懐柔した陽気で女好きの王は、1594年、ルーヴルの大改造に着手します。一番の懸案だったのはルーブル宮と、瓦工場跡にできたチュイルリー宮の各階を、長大な廊下でつないでしまうこと。今日、セーヌ河に沿ってえんえんとつづくドゥノン翼2階のあのグランド・ギャラリーは、こうして出来上がったのです。アンリ四世在位当時は、1階にギリシア・ローマ彫刻がならべられ、1階と中2階が画家、彫刻家、彫金細工師、家具職人たちの制作活動の場になったとか。王はまた、方形のルーヴル宮の各辺を2倍に拡張する大構想を練りました。
ルイ十三世が大構想を受けつぎ、リシュリュー枢機卿とともに、工事を進めます。その名をリシュリュー翼に残すこの宰相は、みずから詩作や劇作もする文化人で、絵画彫刻の大コレクター。アカデミー・ フランセーズをつくったのも彼です。1643年にルイ十三世が没すると、フロンドの乱がおこり、幼いルイ十四世はパリを脱出。当然ながらルーブル宮の拡張工事は中断されてしまいました。
若き太陽王がルーヴルに戻ったのは1654年のこと。さっそく建築家のルイ・ル・ ヴォーに命じて、まずは母后の居室を改造します。ロマネッリによる絢爛豪華な天丼画が描かれた部屋は、現在も「アンヌ・ド ートリッシュの夏の御座所」と呼ばれ、ローマ彫刻の展示室(ドゥノン翼1階22〜26番展示室)になっ ています。 また1658年、カリアティードの間ではモリエールの「ニコメード」と「恋する博士」が上演されました。チュ イルリー宮では、1000人を収容できるヨーロッパ最大の劇場もつくられていますが、音響効果がひどく、すぐお払い箱に。
1660年、満を持したルイ十四世がルーブル宮の拡張に本格的に挑みます。いまだのこる中世の城砦部分を取り壊し、周辺の家屋を立退かせ、方形の王宮を増築。今のシュリー翼が姿をあらわしはじめました。また、その東側部分をあらたな正面玄関にするため、王は建築家たちにデザインを競わせます。が、いちどはイタリアバロック建築の巨匠、ベルニーニの案に決定し、1665年に工事もはじまったのに、なぜか王は意をひるがえしてしまう。結局、玄関の意匠はフランス人建築家たちによる列柱翼(コロナード)のデザインに変更されました。フランス人建築家たちのイタリア人建築家に対する嫉妬や嫌がらせがあったとも言われています。」
一気に引用するのは長すぎるので続きは明日にします。明日はかかりつけ医で朝早くに胃のレントゲン検査と血液検査。部屋を早くでるの一か月ぶりだし、部屋をでるとき不安がおそってくるし、部屋を出るの、廊下が狭いので斜めお向かいに丸わかりだし、終わっても部屋に戻れないので居場所がないし、意の検査するの4年ぶりなので、キノコがたくさんはえているだけですめばいいけど心配だし、いくつかの意味できつくって大変な一日が待っています。今日は久しぶりに美容院ですっきりしまた帰りに寄り道中。帰りたいけど帰りたくない部屋にさっさと帰らねばです。