「工事のため一時的にチュイルリー宮に移り住んでいたルイ十四世は、しかし三度とルーヴルには戻らず、ヴェルサイユに新しい宮殿の設をはじめます。その莫大な工事費用のために、ルーヴル宮の拡張はまたもストップ!鳴り物入りでつくった列柱翼も、1678年にヴェルサイユヘ宮殿が移転したことで、屋根すらないまま放置される始末でまず王立絵画 彫刻アカデミーが入る。次に貧しい芸術家たちがいつのまにか寄りついて、そこらに勝手に小屋を建てて占拠する。はては売春婦がたむろし、お尋ね者がかくまわれる。かくして
17世紀末から18世紀中頃のルーブルは、パリでも有数のいかがわしい場所となったのです。
1715年、太陽王の72年間におよぶ治世が終わると、弱冠5歳のルイ十五世が一時的にチュイルリー宮に戻りますが、8年後にはヴェルサイユ宮に逆戻りして、ルーヴル宮は 放置されたままとなります。啓蒙思想に感化されたルイ十五世は1750年、リュクサンブール宮で王室の油彩画110点を公開しました。この展覧会が好評を博したのを機に、 時の建築長官は王室コレクションをルーヴルに移して展示するための計画案を提出。このプランも財政難であえなく頓挫してしまいます。
ルーブルが再び歴史の舞台に背景として登場するのは、フランス革命が勃発Lた年のこと。1789年10月、民衆に捕らえられたルイ十六世とその一族が、ヴェルサイユからチュイルリー宮へ強制連行されます。 ルーヴルの荒廃はこちらにも及んで いたらしく、芸術家が占拠し好き放題をしていた館で、王は軟禁生活を余儀なくされました。1792年にはタンブル塔に投獄され、翌年に処刑。ルーヴルを愛したり見棄てたり、200年間におよんだブルボン王朝の歴史もこうして幕をおろします。
革命政府がが誕生すると、1793年8月10日、ルーヴルは「中央美術博物館」として晴れて開館しました。とはいえ、一般市民が王室コレクションを鑑賞できるのは、10日間のワンサイクルのうちわずか3日間に限られていたけれど。ルーヴル美術館は、その中身も外見も、ひとりの英雄の登場とともに変貌を遂げます。英雄の名はもちろん、ナボレオン。
中身というのは所蔵品ですね。1798年7月、ナボレオンがイタリア遠征の折りに略奪した古代彫刻の数々が、戦勝パレードとともにルーヴルに到着します。なかには《ラオ コーンの群像》や《ヴェルヴェデーレのアボロン》、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院正面を飾る《馬の彫像》といった名品も含まれていました。その翌々年、ナポレオンは「アンヌ・ドートリツシユの夏の御座所」に彫刻作品をあつめて古代美術館をつくらせ、1803年にはルー ブル全体の名称を「ナボレオン美術館」とあらため、外交官ヴィヴァン・ドゥノンを館長に任命。美術史家であリコレクターでもあるドゥノンは、絵画や彫刻のみならず、工芸品の収集もすすめました。
外見というのは要するに増改築。1804年に皇帝となったナボレオンは、かのアンリ四世の大構想を上回る壮大なプランを描きます。グランド・ギャラリーに平行して、北側 にも長い回廊(現在のリシュリュー翼)をつくり、ルーヴル宮とチュイルリー宮を「口」の字型に連結してしまおう。
まず手始めに、屋根がないまま放置されていたシュリー翼を完成させます。チュ イルリー宮入口にはカルーゼル凱旋門をつくらせ、その頂部にはヴェネツィアから奪った《馬 の彫像》を燦然と輝かせました。さらに1806年、ルーブルに住みついた芸術家たち約200人を強制的に追い出します。1810年には方形の間でマリー・ルイーズと挙式。ナポレオンの栄光とドゥノンの手腕によって、ルーヴル美術館は質量ともに世界最高レベルヘと充実していきました。
しかしナボレオンが失脚してルイ十八世が即位すると、1815年には略奪美術品の返還が決まりました。総数およそ5000点。《 カナの婚礼》など約100点は返還を免れましたが、略奪品の去った広大なスペースを別の作品で埋めなければなりません。そこでリュクサンブール宮からルーベンスの連作《マリー・ド・メディシスの生涯》が移され、在コンスタィノープルの大使から《ミロのヴィーナス》が贈られてきました。1824年、美術館の規則が改正され、日曜・祭日が一般公開、月曜の休館日をのぞく平日は芸術家と外国人のために公開されるようになります。
1852年、大統領に選出されていたナボレオン三世が皇帝を名乗り、第二帝政がはじまりました。オスマン男爵を重用してパリの都市大改造に踏み切った皇帝は、伯父のナボレナポレオン一世がたてた計画の完成を目指します。ルーヴル宮とチュイルリー宮を「口」の字型に連結する工事は、民家に遮られて未完だったんですね。道路整備と一体となった工事は 着々と進み、1857年ついに完成。「ルーブル帝国美術館」として新装オープンしました。こんどは休館日の月曜以外はいつでも誰でも鑑賞できます。フランスのアマチュア考古学者が《サモトラケのニケ》を発見したのも、イタリアの銀行家カンパーナ侯が収集したギリシアやエトルリアの陶器を中心とする約1万点のコレクションをルーヴルが競り落としたのも、この頃のお話です。
順風満帆だったルーヴルにも、やがて火の粉が次々と降りかかってきます。
まずは普仏戦争とパリ・コミューン。1870年にパリがプロイセン軍に包囲されると、グランド・ギャラリーは銃身を彫る工場と化しましたし、翌71年5月には、パリ・ コミューンの争乱のさなか、チュイルリー宮に火が放たれます。宮は焼け崩れ、12年間も無惨な姿をさらしたすえに撒去。「口」の字型に完成したルーヴルは、わずか25年でその一辺がボロリと欠けて、現在のような「コ」の字型となったのです。
続く受難は第一次世界大戦の勃発。1914年、まず主要な作品が南仏トゥールーズまで特別列車に乗って疎開します。ドイツ軍の空爆がはじまった翌年にはプロワヘも避難。
1939年8月25日、ドイツ軍のポーランド侵攻を待たずに、ルーヴルは作品の大脱出作戦を開始します。綿密な計画どおり作品が丁寧に梱包され、1組5〜8台のトラックからなる運送隊によって夜中に次々と運びだされていきます。ジェリコーの《 メデューズ号の筏》もそのひとつ。ところがヴェルサイユの市庁舎前でカンヴァスが市電の架線に引っ かかってショート。暗闇のなか、バチバチと飛び散る火花が名画を照らしたといいます。
あやうく焼失は逃れたものの、その先は市電のあるルートを避け、電話線も危ないと見て とるや技師を随行させ、電話線の下を通るたびに架線を外させたり持ち上げたりしたとか。
《モナ・リザ》を含む第1隊が出発してから12月までの5ヶ月間、こうして約4000点の名品が37隊にわかれてパリを脱出、まずロワール河畔のシャンポール城に運ばれました。《モナ・リザ》の逃避行はさらにつづきます。ドイツ軍の侵攻が明白となった翌1940年には、はるか南方、アヴェロン県のロックムアュー大修道院に移るも、ここは湿度が高く、すぐに隣県のモントーバンにあるアングル美術館へ。ところが1942年に入ると、ドイツ軍が非占領地帯のモントーバンにまで進駐をはじめます。《モナ・リザ》あや うし!名画はまたもや密かに運びだされ、南仏モンタル城でやっと戦火をのりこえたのです。
ではパリのルーヴルはどうなったでしょう?1940年の6月、パリを占拠したナチス・ドイツは、ほとんど空っぼなルーブルに、さぞや落胆したことでしょう。表向き紳士 的なナチスは、まず過去にドイツから略奪された作品の返還を求めました。しかしルーヴル側も負けてはいません。「ただ一方的に返還するのはおかしい。ドイツにあるフランスの作品との交換が条件だ」と主張、ドイツ側が提供してくる作品に難癖をつけて時間をかせぎました。フランス人の屁理屈にうんきりしたのか、 交渉役のゲーリング元帥は《サモトラケのニケ》の複製を作らせてしぶしぶ満足、のちに自分の山荘に飾って、テラスから眺めていたというこです。
そうこうしているうちに終戦。二度の戦火を何とか切り抜けたルーヴルでしたが、展示スペース不足という問題だけはいまだにつきまといます。1981年に大統領に就任した ミッテランは、今のリシュリュー翼に入っていた財務省を移転してルーヴルの全館を展示室にあて、鑑賞経路をわかりやすく改造する「グラン・ルーヴル計画」を提案します。 1986年にオルセー美術館がオープンすると、印象派など1848年以降の作品を移転。1989年にはガラスのビラミッドが完成し、開館200周年を迎えた1993年、リ シュリュー翼の改造がついに終わりました。
そして21世紀。この巨大な美の迷宮は休むことを知りません。たえず作品の修復がなされ、展示替えも行われ、新しい展示スペースをつくるべく必ずどこかで工事は続けられ ているのです。」