「姫は王官に訪ねていって、愛する王子の侍女となり、相手の愛をうるべく――でなければ不死の魂はえられない ――ありったけをつくす。しかし、王子は人魚姫が自分の命を救った当人だとは知らず、口のきけない姫には、それを知らせることができない。王子は姫をかわいがりはするけれど、心の奥では、あの海辺で自分を助けてくれたと思いこんでいる未知の娘にあこがれている。そして隣国の姫がその人らしいと知って、人魚姫を伴って訪ねてゆき、それが当の娘であると知って、彼女と結婚することになる。人魚姫の願いは、自分が命を助けてやり、心からの愛をささげた相手によって、ついに裏切られたのだ。二人が婚礼をあげた翌朝は、姫は死んで海の泡になるしかない。
それを知った人魚姫の姉たちは、自分たちの自慢の黒髪と引きかえに、例の魔女から一 本の短刀をもらってきて、それを妹に与えて言った――これで王子の心臓を刺して、その血をお前の足に受ければ、お前はまた人魚に戻れて300年を生き長らえることができるのだから、夜が明けないうちに王子を殺して、私たちのところへ戻っておいで、と。
姫は短刀をもって王子の寝室に忍びこむが、並んで寝ている二人を見ると、どうしても王子を刺すことができない。ついに姫は短刀を波間に投げ捨てて、自分は水の泡になる覚悟で海にとびこむ。しかし、いつか姫は自分のからだが軽くなって空に漂っているのを知るのだった。そして、同じくそこらに漂っている空の精たちがいう――あなたもよい行いを続けていると、300年の後には不死の魂をえて、天上に昇って行けるのですよ、と。
この結末は、姫にとって少しく苛酷なような気がしないでもない。自分を裏切った王子を殺すのを思い止まり、人魚に戻って300年生きることも断念した姫が、不死の魂をうるのに、なお300年を空に漂わなければならぬというのは。しかし、先に見たように、動物である人魚と人間の間には、 さらには人間と天上界の間にも、容易なことでは越えられない断絶があるとするのがキリスト教の人生観であり、それを越えるためには、それだけ大きな試練と努力が必要とされるのであった。同じ考えは、例えば『赤い靴』の女主人公イングルの虚栄心に対して、苛烈なまでの罰をこれでもかこれでもかとばかり加えている点にも、現れているだろう。
こういうキリスト教的人生観が、アンデルセン童話を、小川未明の似た題材を扱った『 赤い蟷燭と人魚』から区別し、さらには芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の、もう一歩のところで救われそうだった悪人健陀多を、ふたたび地獄の池に転落させる、仏教的な匂いの濃い結末とも区別することになる。もちろん、どちらの童話の方が文学的にすぐれているかということは、また別の問題だ。しかし、どちらの作に現われている人生観の方が、より人間的かという点になると、やはリキリスト教の教えの方が、人間をはげまし、また慰める力をもつのは争われぬと思う。
さきに言ったように、この作はアンデルセンの苦しい恋の経験から着想されたものだっ た。しかし彼はこの作を書く過程で、愛の本質は、相手によって愛を報いられると否とにかかわらず、いわゆる無私の愛に徹して愛しぬくことにあり、そこに救いもあることを知っ たと言えようか。こうして彼は失恋の傷手から立ち直って、新しい勇気をもってふたたび人生に立ち向うことができたのであった。彼はその後にもまた恋をして、その恋もまた失恋に終り、ついに生涯を独身で過すことになる。しかし、人生に対する愛と信頼は、最後まで失うことがなかった。『人魚姫』のような作を書きえた彼としては、それも当然であったか知れない。
とにかく、この作を書いて後、彼の生き方は、それまでよりも一段と確固とした肯定的なものになり、作品はいっそう澄んだ、自在のものとなったのであった。」
アンデルセンの生涯 (現代教養文庫) | |
山室 静 | |
社会思想社 |