たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『アンデルセンの生涯』より_『人魚姫』(1)

2017年10月19日 19時08分19秒 | 本あれこれ



 先日、『ハンナのお花屋さん』を観劇した時、長い間積読になっていた『アンデルセンの生涯』という本をたまたま読んだばかりだったので、クリス(明日海りおさん)がミアに出会ったミア(仙名彩世さん)に矢車草の花束をプレゼントするとき、クリスのデンマークの家を訪れたミアが矢車草の花束を手に喜びを現わすとき、「人魚姫の瞳の色」というのがなんとも心に沁みました。昨年の12月、加藤清史郎君の「人が自分をどう思うわけではなくじぶんがどうしたいかなんだ」というパブロの無償の愛に心を動かされた『スマイルマーメイド』の舞台も鮮やかによみがえりました。なので、デンマーク、フューン島の旧都オーデンセの極貧の家に生まれ、70歳で亡くなった時国葬をもって祀られたアンデルセンの生涯に思いを馳せつつ、山室静さんの『人魚姫』の解説と鑑賞を書いてみたいと思います。


「1837年に出た『子供のための童話集』第二冊に収録。これがアンデルセン童話の名声を決定づけた最初の作である(略)。

「海をはるか沖へ出ますと、水は一番うつくしい矢車草の花びらのように青く、また、 この上なく澄んでいます。けれども、その深いことといつたら、どんなに長い錨綱でもとどかないほどで、その底から水面までとどかせるには、教会の塔をいくつもいくつも積み重ねなくてはならないことでしょう。人魚たちが住んでいるのは、そういう海の底なのです」

  この書き出しのすばらしさ!文章がたいへん美しく、矢車草の花のように青い海とか、教会の塔――ヨーロッパの町へ行ってみればわかるように、それは町の家々の屋根をはるかに抜いて高く聳えている――をいくつも積み重ねなければとどかぬ深さとか、イメージがいかにも鮮やかで具体的で、しかも浪漫的な香気をもっている。話がどんな展開をとるか、おのずと想像させるような魅力をもった書き出しだ。

  もっとも、一般に言えば、彼の童話はもっと散文的な書き出しをしたものが多く、これほど高調した、ほとんど詩的といっていい冒頭をもった作は、稀にしかみつからない。ということは、この作が非常な意気ごみで書かれたことを示すものだ。それを一口で言えば、 いく度か愛でにがい思いを味わわされたアンデルセンが、〈愛の本質は何か〉という問題で苦しんだはてに、漸くつかんだものを、その悩みと救いごと、吐露しようとしたからだといえようか。

 もちろん、これは著者の恋の体験記でも、恋愛論でもなく、幼い人たちにも読まれる童話だから、人魚の王様の末娘の人間の王子に対する悲恋という筋立を用いて、すべては客観的に形象ゆたかに描かれている。しかし、その底を流れているのは、他ならぬ作者その人の 苦しい体験であり、その悲しみと悩みを克服して明るい世界に浮び上りたいとする熱い願いだ。それだけに、作者は全身全霊を打ちこんでこの作を書いて、執筆中に幾度も思わず涙を流したと言っている。そこにこの作の人を打つ力も生じているのだが、自分の失恋の悩み をぶちまけて書いたからといって、すべての作がそういう力をもつわけもないのは、言うまでもない。

  とにかくこの作は、アンデルセンの想像力の豊かさ、場面に応じて適切な美しいイメー ジを喚起し、表現しようとするイデーにそれにふさわしい形象を与える力の豊かさを、ほ とんど遺憾なく示した名作だと言えよう。

  例えば、人魚姫たちの年とった祖母は、家柄のよいのが自慢で、ほかの者はどんなに身分が高くてもカキは6つしか尻尾につけることができなかったのに、自分は12もつけていたとか、海の中には、ちょうど地上で鳥が空を飛びまわるように、魚がすいすいとめずらしい木や草の間をすべっていて、人魚の王様の城の窓を開くと、ツバメが私たちの窓にとびこんでくるように、その窓から泳いで入ってきたとか、姫たちは海底に自分の花壇を鯨の形につくったとかーそんなちょっとした表現にも、それがよく窺がわれるのだ。」




アンデルセンの生涯 (現代教養文庫)
山室 静
社会思想社