たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

花組『ハンナのお花屋さん』_Happiness

2017年10月24日 19時07分05秒 | 宝塚
「akanetta‏ 
@209Sofia

大戦中、宝塚が慰問公演で巡業したり、自由な演目が出来なかったような、そんなことだけは繰り返して欲しくなくて、いつも以上に真剣に投票したけど、でも、結果はそっちに近づいたんだろうな。今みたいに、公演の出来、不出来で騒いでた頃を懐かしむなんてことにだけは、なりませんように。
9:30 - 2017年10月22日 」

 こんなツィッターの投稿が目にとまりました。ライヴビューイングがあった22日の投票日、運よく台風通過が重なり、投票率が伸びなかったおかげで現政権と経団連にとってうはうはな結果となり、これからの日本を思うと暗澹たる思いになっています。(わたしは期日前投票しました。)大卒の求人が増えているのは団塊の世代が定年退職で会社からいなくなっているために人員を補充しなければならないからだし、正規職員の給与が伸びているのだとしたら、その陰には低賃金+不安定さと背中合わせで働くたくさんの非正規雇用労働者がいるわけで、非正規雇用労働者の存在がなんとかバランスを保っているだけ。日本という船はどこへ流れつこうとしているのか、ほんとうに心配です。『ハンナのお花屋さん』に込めた植田景子先生の想いが、明日海りおさんクリスの「悲しいことはもういい」という叫びが、「地雷ではなく花を植えましょう」というサニーちゃんの声が、世界中に届きますようにという気持ちをこめて今日も徒然観劇日記を書いてみたいと思います。(たぶん長いです。)


「Happiness-Some little thingsー(愛しきものに宿る幸せ)

 作詞:植田景子
 
 Happiness
 たわいないお喋り
 いつもの笑い声
 当たり前に過ぎゆく
 このひと時

 Happiness
  共に過ごした時
 愛しい思い出
 見過ごしてしまいそうな
 ささやかな出来事

 Happiness
 小さなものに宿る幸せ
 キャンドルのゆらめき
 一杯の熱い紅茶
 優しい雨音
 子猫のちっちゃな手

 誰かと出会い 心ふれあい
 誰かと別れ 気付く愛しさ

 全ての出会いこそ
 幸せのかけら
 青い鳥は そこにいる
 Happiness」


リリカルなテーマが散りばめられているだけに身近に引き寄せて考えることの多い舞台ですが、わたし自身が労働紛争を経験することとなったせいか、会社の経営を立て直そうとするアベル(芹香斗亜さん)と現場で働く移民の労働者とが対立する場面にもすごく気持ちが入ります。残念だけれど、数字が厳しくなったとき経営者と労働者は対立することになる。経営者は数字をあげるために労働者を切り捨てていく。(わたしの場合は派遣で、実際にわたしを切り捨てた大きな会社は、責任を全部派遣会社におっかぶせてまんまと逃げきりましたけどね、そういう仕組みなっているのでどうしようもなかったですけどね、それはさておき・・・)、アベルが「会社の利益を反するものはやめてもらうしかない」と経営者の顔になり険しい表情でを告げる解雇を告げる場面、ライヴビューイングの大画面だと苦悩がよくわかってつらかった。解雇された移民の現場労働者が恨みからアベルの造船所に放火し、結果的に近くに住む両親を助けようと火の海に入っていったハンナを巻き込むこととなってしまったという事実。自分がまだ小さかったとき、「会社の経営のために母を犠牲にした父(アベル)を許せなかった」という青年クリス(明日海りおさん)の苦悩の表情もつらかった。クリスの言葉がそのまま、自分の判断によってハンナを失うことになった父アベルが自分自身に向けてずっと突きつけ、責め続けてきた言葉であろうことを思うとつらかった。ハンナを失ったと知った時のアベルの「取り返しのつかないことをしてしまった、もう二度と安らぐことはない」という言葉もまたつらかった。失われた命はどんなことをしても戻ることはありません。24年前妹との突然のお別れのあと、亡骸を前にもう一度だけでいいから目をあけてほしい、ごめんね、って謝りたいと心の中で叫び続けたことを自分がいたことを思い出していました。

 劇中に老いたアベルは登場しませんが、青年クリスの言葉には、父から離れようと高校時代をスイスで過ごし、大学時代からはイギリスで暮らし続け、物理的に離れていても心の中では離れることのできないクリスの葛藤が立ち現れているように思いました。クリスの傍らには、姿はなくてもいつも父アベルがいるように感じました。個人的に、わたしは2012年にお別れした母が晩年精神疾患となったことを長い間受け入れることができずに苦しんできました。そうして国家資格をとるところまでいったのですが、実習の時施設長に言われた言葉を忘れることができません。「元夫婦というのはあるけれど、元親子というのはない、親子は途中でやめることができない。」葛藤するクリスの表情を大画面でみながらこの言葉を思い出していました。うまく言えませんが、逃れたくても逃れることのできない現実と葛藤し続けてきて、アベルが旅立った今ようやく幼い頃暮らした家に帰って来て、父アベルと、幼い頃の自分と対話しながら、迷子になったままだった自分の、本当の居場所を見つけていこうとしているんだなと。

 物語は、アベルの葬儀のあと、ハンナもクリスも知らなかった事実が叔父エーリック(高翔みずきさん)からクリスに告げられます。アベルは長い間子供ができなかった両親が救貧院から引き取って後継ぎとして育てたのだと、アベルは生まれながらに貴族の血筋をひく品の良さがあったと、アベルがきてから13年もたって自分が生まれたが両親はアベルと自分を区別するようなことはなかった、実の子として育ててくれた両親の恩に報いたくて必死に会社を立て直そうとしたんだろうと。

 ハンナ亡きあと、アベルとクリスは心通い合うことのないまま、お別れの時が訪れたけれど、こうしてクリスは必死に父を理解しようともがいてきた、遠ざかろうとしながら心はいつもアベルのそばにあり、お別れのあと、言えなかった自分(アベル)の言葉をクリスは必死にさがしている、クリスはずっとアベルと一緒に生きてきたし、これからも生きていく。ラスト、幼い頃暮らした森の中の家にやってきたミアを迎えるクリスを、アベルとハンナが見守るシーンでエンディング。アベルの人生は幸せだったのではないかと、ほっと涙が流れました。

 なにが幸せかっていう正解はどこにもなく、人それぞれですが、今年に入って経験した業務を通して、また来月半ばからやろうとしている業務を通しても同じことを感じることになるだろうと思いますが、心配してくれる人がいる、旅立ちを見送り、旅立った後も折にふれ思い出してくれる人がいる、それだけでその人の人生はYESなのではないかと、十分に幸せなのではないかと。そんな当たり前みたなことは叶わない人が社会にはたくさんいるという現実を知り、ずっと不幸としか思えなかった母の人生も十分に幸せだったのだと思うようになりました。このあたりのことは、あまりはっきりは書けませんが、普通がいちばんかけがえがなく、むずかしいことなんだと気づいた気持ちを徒然日記に書いているのでこれ以上今書くのはやめておきます。

 深読みし過ぎですかね、1幕と2幕、たっぷり3時間近くの舞台。心にぐっとはいってきた場面がまだまだあったように思います。かなり長くなってきていますがもう少しだけ・・・。


(『倉田稔『ウィーンの森の物語_中央の人々と生活』より)

「外国人はヤミ労働をする。市民権か労働許可証をもたないと、ヤミ労働になるわけである。それは一層、低賃金となる。そして、労働許可証や市民権を得るには大変である。これらのヤミ労働は経済統計には現れてこない。こうしてオーストリアでは、実際の肉体労働は外国人にやらせ、自国民はいい給料、長い休み、短時間労働を享受している。ヨーロッパの短縮で有名なのは、これが大きな原因である。外国人労働者がいなければ、ヨーロッパは経済的につぶれてしまう。それなのに、外国人を低く見ている。一方、オーストリアでは、ドイツ人だけは二重国籍をとれる。

  ヨーロッパは新しい移民時代を迎えている。アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの第三世界から膨大な移民がやってくる。オーストリアには、旧ハプスブルク帝国には、もともと多くの外国人がいたのに、それに輪をかけている。第三世界には貧困が、ヨーロッパには富と文化があるので、強い力でヨーロッパは人をひきつける。そしてヨーロッパのその富と文化は、初めから第三世界の搾取でできあがっていたのだが。」

 長文、失礼しました。稽古場写真はツィッターからの拾い画です。