たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

春のプリンス・エドワード島への旅_出発

2017年10月09日 19時40分23秒 | プリンスエドワード島への旅
 春のプリンス・エドワード島への旅日記をまだ載せていないことにようやく気がついた次第。すっかり載せた気になっていましたが写真の整理が追いついていませんでした。断捨離を進めていますがいろいろとあふれかえっていて整理しきれず、こんなノートがあったねえと振り返っているそばから、そのノートがどこにいったのかまたわからなくなっている状態。すっきりと暮らせるまでにはまだまだ時間がかかるんだなあと再認識しました。少しずつやっていくしかありませんね。

 春のプリンス・エドワード島への旅は2010年6月6日(日)から13日(日)までとちょっと長めのゆっくり旅。前年夏のプリンス・エドワード島へ旅して、幸せ感に満たされた、夢のように美しい島にもう一度行きたいと思いました。今度はアンがはじめて島に降り立った春に行きたいと強く思い、年明けには旅行会社の窓口に申し込みに行ったと思います。まだプランが出ていないのでもう少しお待ちくださいと言われた記憶があります。父親の具合が悪くなることなど全く想定していませんでした。蒸し暑くなりはじめた頃、父親の具合がよくないと弟から連絡がはいっていました。それでも、妹とお別れしているのに自分の親がこの世からいなくなることなど思い描くことができなかったわたしは、7年ほど続いていた会社の二人分労働もとうに限界をこえていたのでつらくってつらくってつらくって仕方なかったわたしは、弟へのうしろめたさを抱えながらも実家には帰省せず予定どおり旅に出ました。今行かなかったらもう行けなくなるという気持ちがありました。2010年、真夏は連日40度近くまであがり酷暑と言われた夏でした。旅から3か月後の9月、父親とのお別れがおとずれました。そして2011年3月に東日本大震災、そして2012年2月に母親とのお別れ。試練の連続でした。心の引き出しの中にプリンス・エドワード島への旅の思い出がなかったら乗り切れなかったと思います。2012年9月、妹と両親の三人を一緒にお墓にいれてあげて三度目の、秋の島への旅をしました。そのあとに働いて働いて働いた会社から使い捨てにされるというかたちで日中の居場所をなくし突然社会から孤立するというまたまた大きな試練を経てようやくこの旅を少しずつ振り返ってみようと思います。


「2010年6月6日(日)

17時、AC0002便にて成田空港からトロントへ出発

 -日付変更線-

15時50分着、トロントピアソン国際空港に到着(時差13時間)

20時30分、AC8858便にてシャーロットタウンへ出発

23時34分、シャーロットタウンに到着(時差12時間)


成田→トロント→シャーロットタウン、
飛行中殆ど眠れないまま、夜半12時頃PEIに降り立つ。
雨and寒い。また来ちゃったPEI。信じられないような・・・、でも現実。

ベスト・ウエスタンホテル泊。

なんとか2時頃ベッドに入るが、何度も目がさめたりしてあまり眠れなかった。
金・土も眠れていないので、すでに体はへばっていた筈だ。

トロントの乗り換えはやっぱり大変。荷物がでてくる所を見間違えてたし、入国審査のあと違う方向に行きそうになった。危ない。」

 トロントで一人乗り換えなければならないのに緊張していました。日本人CAの「まもなく当機はトロントピアソン国際空港に到着します」のアナウンスにぼっとうしていたのが一気に緊張感高まり。降りるとき、「乗り継ぎの案内はありますか」ってCAにたずねたら「特にありません」っていう答えが返ってきたのはこの時だったかな。成田空港で預けたトランクをいったん受け取ってから入国審査を受けるのですが、しばらく違うターンテーブルで待っていました。6日の午前中自分の部屋を出発してから20時間近くが経過、日本は真夜中、疲労と時差でほとんど頭が回っていない上に、老眼が始まっていたので電光掲示板の赤い文字がちかちかしました。気づいてからあわてて正しいターンテーブルに行くと自分のトランクだけがまだ回っていたっけかなあ。それから入国審査を受けると今度は違う方向へ行きそうになり、係員の、えっ!あっ!っていう表情で気づいた次第。それから国内線への乗り換え口でまたトランクを預けると、搭乗口のゲート番号をたよりに広い広い空港の中をひたすらシャーロットタウン行きの搭乗口を目ざして歩きました。同じフリーツアーを利用されていた女性の二人連れに声をかけていただいたのは無事シャーロットタウン行きの搭乗口近くにたどり着いた時だったかな。すごく不安で一人で来ている女性がいるときいていたのでさがしましたって声をかけていただきました。声をかけていただいた時は、わたし日頃のストレスと疲労の蓄積で顔がひきつっていました。申し訳ないですとあやまりました。お二人とは帰国してからも何度かお会いしており、気にかけてくださっていてほんとにありがたいことです。旅の縁とは不思議なもの。たまたま同じ日程を選んでいなかったらお会いすることなかったですからね。





シャーロットタウンまではエアカナダのこんな小さい飛行機に乗ります。
風で大きく煽られるとちょっと緊張。
上空で安定しているときはおやつと飲み物がでます。





陽が落ちようとしているカナダの空を飛び、夜のシャーロットタウンを目指しました。
こうして振り返っていると、なんだか涙がでてきます。














2009年2月‐6月『ルーヴル美術館展』_17世紀ヨーロッパ絵画(4)

2017年10月09日 17時53分14秒 | 美術館めぐり
 2009年のルーブル美術館展より、公式ガイドブックをようやく振り返っていて気になった作区品をまた紹介しようと思います。画像はウィキペディアに載っていないようなので文章だけ。(ガイドブックの写真を載せるわけにはいかないので・・・。)


(公式ガイドブックより)

「ピーテル・スナイエルス(1592‐1667頃)

《プラハ近郊白山での戦い》
 
 17世紀半ば 油彩、鋼板

 32×46㎝

 戦争画を得意とする画家ピーテル・スナイエルスは、その作品にしばしば遠くまで広がる
鳥瞰(ちょうかん)的な光景を採用する。しかし、この《プラハ近郊白山での戦い》では、戦闘の真最中の人々を近くから表わすことができるように、画家はあまり上から見下ろすような視点を採ってはいない。さらにスナイエルスは大画面でよく描くが(彼の戦争画は時に長さ2メートルを超える)、ここでは、銅板という必然的に小型となる画面で彼の総合力の高さが示されている。画面上に砲兵隊、騎兵隊、歩兵隊がそろって見られるこの作品は、17世紀を通じてヨーロッパの大地の上で偏く繰り広げられていた戦争の状況を描き出している。

 スナイエルスがここで表現しているのは1620年11月8日に起こった、いわゆる「白山の戦い」であるように思える。それはプファルツ選帝侯フリードリヒ5世に率いられたボヘミアのプロテスタント軍勢に対する鎮圧であった。ウィーン皇帝の権力に反発したボヘミアの宗教改革勢力に対して、カトリックのハプスブルク家が勝利したこの「白山の戦い」は、引き続き血なまぐさい鎮圧をもたらした。プロテスタントの反乱の首謀者たちは公の広場で処刑され、彼らの財産は、査察者(ヴァレンシュタイン)や外国貴族(ピッコロ—二、コッロレド、シュヴァルツェンベルク)らに売却された。そしてボヘミアにはドイツ語が強いられた。

 スナイエルスがフェルナンド2世の皇帝軍に対するチェコの人々の敗北を描いたのは必然的である。フランドルの画家としてカトリック信者であり、1628年までアントウェルペンで活動し、以後ブリュッセルに居を定め、教皇クレメンス8世から1599年に黄金の薔薇を授与されていたスペイン王女イサベラ・クララ・エウへニアのため、さまざまな聖像復興に従事していたからである。端的に言えば、プロテスタントの敗北は、ハプスブルク家の支配的エリート層の近くにいたこの画家におって自然な主題であった。宗教戦争、正しくは「30年戦争(1618‐1648)は、ルネサンスに発し、「黄金の世紀」に拡がった戦いであった。そして、それらの戦禍はヨーロッパんの悲嘆と破壊の根本原因のひとつでもあったのである。」


 うまく言えませんが、ハプスブルク家という名前が出てくるといろいろと考えさせられてしまいこれを書きました。