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たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

気持ちが追いつかないまま

2019年05月19日 20時54分08秒 | 祈り
 昨日の夕方辛くなってきてしまった提出書類の準備。いちばんきついところの履歴の下書きが先ほど終わりました。所定の用紙以外は受理しないとあるので、自分でフォームを作成して足すことはできず、なんとか行数におさまるように書きました。あとは明日ボールペンで上書きして、諸々のコピーをとり、住民票を入手して郵便局へ持ち込み。紙質のよくないフォームにシャープペンシルで書いては消し、書いては消しを繰り返しているのでボロボロになってきてしまいました。こんなん、どうなんでしょうか。最終試験も兼ねているのでしょうかね、これって。どうして改めて履歴書を提出しなければならないのだろうと考えてみるに、応募の際にはすごく簡易なフォームで、私は書きましたが職歴蘭は職種のみで事業所名を記入しなくてもOKでした。だから合格した方はさらに詳しい情報を改めて出してくださいということなのかなあと理解しました。事業所名、担当した業務と併せて面接の際に質問された雇用形態についてもそれぞれわかるように記入しました。どう受け取られようとこれが私じゃ、しゃーない、しゃーない・・・。

 通勤届に距離も記入しなければならないのでグーグルマップで検索すると、自宅から最寄り駅まで国道を通って2.1km、徒歩26分。ありますねえ、遠い。最も条件の悪い、巡回バスが一時間に一本だけ、家族の協力を得るのは難しいことを面接の時に色付けなしで伝えてしまいました。福祉職にも応募したことを伝えるために出向いたので、車がすごく危ないので不安ですまでは言いませんでした。稼働時間は6時間となっていますがシフトはどうなるのか、こんなんでも来てほしいということなら開始時間に配慮を期待してもいいのでしょうか、どうでしょうか。その前にこうして準備していても明日のお昼前後に届くであろう文書が作文通過していることを知らせる内容だったらものすごく未練が残り気持ちは揺れるでしょう。帰郷して半年、いきなりハードなことをやろうとする前に、まずは通勤と地域に慣れるかどうか。だからまだ気持ちが追いついていないけど、これでいいのよ、自分。

 通勤がほんとに不安。自宅から駅までがいちばん不安。同級生に会うと昔はみんな自転車だったよね、という話になるのですがそれはほんとに昔の話。ほとんど見かけることはありません。逆に車の交通量は格段に増えています。自転車用のスペースなんかない、車がビュンビュンとばしている国道の脇を自転車で走り、どこかで信号のない横断歩道を渡らなければ駅にはたどり着けません。30年前よりも加速した車社会。車がないと生きていけない地方都市、公共交通機関が整備されている一部の大都市圏を除けばこんなもんでしょうね。都心と地方の凄まじい格差を身体で実感する毎日。先週地図を見ながら自転車で探し当てたドコモも車がビュンビュンとばしている幹線道路沿いでした。暗くなってくるとヤンキーーたち?がバイクのエンジンをぶんぶん噴かせて走っていくし、ものすごくこわかった、そこからいちばん近い駅なんで無人のさびれた状態だから駅近に店が集まるとかそんなことは論外で全てが車前提。公共交通機関だけでは生きていけないから自転車に乗らざるを得ませんが、道は車優位にしか作られていないので危ないです。自転車のための幅なんてないのに加えて、緩やかな坂になっているので横断歩道を渡るとき、車がきているかどうかぎりぎりまでわからないという見通しの悪さ。日中もこわいですが、朝はいちだんとこわい。車にはね飛ばされたら凄惨ですよね。秋の二人のさゆみさんが相次いで宝塚を卒業していくのを見届けるまでは死ねません。さらに願わくば、清史郎君がレミゼの舞台に帰ってくるのを見届けまでは死ねません。さらにさらに願わくば今一度プリンス・エドワード島に行くまでは死ねません。だからとにかく日中の居場所と収入を確保しながら生き延びるんだよ、自分。どうにかこうにか生き延びること、それ自体がすごいことなんだからさ、自分。

 職歴を振り返らなければならないとき、いやでも蘇ってきてしまう、今だったらパワハラなんじゃないの、っていうレベルで上司のストレスのはけ口となっていた日々。平成13年7月から平成26年3月まで大会社で働きました。働き始めて2年目ぐらいから数年続いたんだったかな。団塊の世代の方。大会社でいつも私席が悪くって、引っ越し好きの大会社でしたが就業を開始して2年目、違法でしたが派遣会社を移ってから、社屋を移転した直後この上司を背中に背負う形で私坐らされました。社員たちが入れ替わり立ち替わり海外出張に行く会社で、気がつけば隣も前も誰もいないなか、もう一人の事務はアルバイトだけという状況でした。上司は部長になってから海外出張に行くことがほとんどできなくなり、上からは売り上げをあげろと叩かれてストレスのはけ口となったのは、海外出張に行くことのない私と中途採用された契約社員Aの大人しい男性でした。この方パソコン音痴でもあったので、システム担当っていったって海外出張に行ってしまう中、海外部門のシステム担当との間でサンドイッチになったこともしばしばでした。この辛かった日々のことは、以前繰り返しこのブログに書いていたような気がします。部長職を退き定年退職後は嘱託になったらこの方ものすごく穏やかになりました。孫の写真を携帯の待ち受けにしてたりしたの。それだけプレッシャーを抱えていたのだと認識はしていますが辛い日々でした。記憶が遠ざかってきていますが履歴書を書いているときいやでも思い出してしまう、言葉にするのも難しく誰にも理解されず辛抱し続けた辛い日々でした。言葉にできないですが履歴書として私の顔に現れてしますかね、どうなんでしょうか。

 国家試験受験の勉強をしていたとき、この辛さを吐露した「心理学」のスクーリングレポート。2年前、ブログに書いていますね、私。


2017年4月29日記事;苦しかった日々を思い出す
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/bf745063ad21c75c363bf0707c85128a


ボロボロになってきた手書きの答案用紙。一応デジタルデータもあるし、ほんとにもう過去になってきているのでお別れしましょうかね。ちなみに講師の評価は、「Good!」でした。

明日はまた朝から動かねば。水曜日に持参するという手段も残されてはいます。