たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

生きてさえいりゃ

2019年05月09日 22時45分50秒 | 宝塚
「生きてさえいりゃ、どんな苦労も乗り越えられる。

 いっぺん死んだ気イなってやってみなはれ。

 この世は極楽、命に感謝や!」

 By 康次郎


 「そーれそれそれ、ありがたや。

 そーれそれそれ、なんまいだ。」

 
『Another world』より


1月14日と29日の二回も、宝塚歌劇の殿堂で康次郎さんの特別な舟に乗ってきたら、大丈夫なの。実際に舞台で紅ゆずるさんが乗ったものだそうな。こんな体験、あとにもさきにも二度とないでしょう。楽しかった。




11日の深夜にNHKBSで放送されます。
アングルが本家とはまた別物だそうな。
作文に行けなくても、作文が書けなくても、久しぶりに眠剤封印して、一杯やりながらみるよ。連休前からずっと緊張してきているので心のお休み。





うまくやれませんでした

2019年05月09日 18時37分17秒 | 日記
 先日の作文以来の都会、さらに電車に乗り換えて面接に行ってきました。明後日の朝に向けて一回目の乗り換えルートを確認するためにちょっと寄り道したあとほんとに久しぶりのドトール。郷里近郊の自転車で行ける範囲は病院内にしかないのでほんとに久しぶり。エスカレーターの右側を歩いてはいけないのか、知らなかった。都心と同じつもりでがんがん歩いてしまっていました。場所によって違いますね、郷に入れば郷にしたがえ!がなかなかできない自分。朝から薄曇りで気温が低めなので体が冷えてしまっています。冷えるとお腹が緩くなってなんどもなんどもお手洗いへ行きたくなるの、まるで子供です。暑かったり寒かったりが今年も厳しい季節の変わり目。ほとんど人と話すことなく過ぎていく毎日、眠れないとつらいので眠剤に頼り続けています。昨夜は半錠で1時頃就寝、6時過ぎに弟の足音で目がさめてしまってから布団の中でウトウトの朝、まだ暗いうちにお手洗いで目がさめるまでの間熟睡できていたようなので大丈夫、大丈夫と言い聞かせ、早めにお昼を食べると家を出ました。40分ほど余裕があったのでコーヒーを飲みたいと思ったのですが店はなくおやつがわりにセルフうどんやで息整えて面接会場へ。

指定時間どおりに行ったら前の人はすでに終わっているとのことでした。おじさんが三人とも来ていたのかはわかりません。最初に志望動機をきかれたので、家から通える範囲で前職の経験を生かせる仕事をしたいと答えました。電車に乗れば心配したほど時間はかからないけれど家が駅から遠いので通勤に不安があることを正直に言いました。自転車に乗れないほど悪天候の時7時33分のバス以外に手段はないと言いました。通勤に家族の協力は得られるかときかれたので、弟は毎朝7時前に車で出かけるので厳しいと答えました。転職が多いが正社員かときかれたので一つ目以外は全て契約ベースだと答えました。いちばん困難だった仕事はどれか、困難にどう対処してきたのかときかれました。全部大変といえば大変だったけれど一つ目の銀行と13年働いた会社、そして前職が特にきつかったと答えました。具体的にと言われたので何を言えばいいのかわからず、すごくつまらない一つ目の大変さを少し語ってしまったような気がします。それから前職がどう大変だったのかをばかみたいに少し語ってしまっていたかもしれません。なぜ○○会社で働きながら資格をとったのかとの質問には、個人的なことなので差し控えさせていただいたと答えました。その他にも業務を行うにあたってすごく大事なことについてきかれたので、ほとんど前職の経験からしか話すことができずいろいろと余計なことを言ってしまいました。こちらに応募したあと援助職の求人をみたので応募したこと、援助職は資格と前職の経験をダイレクトに生かせそうなこと、作文の試験を控えていることを正直に伝えました。正直にこのことを伝えなければと思い今日は来た、このことを伝えた結果できびしいということになっても自分で選んだことなので承知していると伝えたのはハロワで相談した通り。そちらで決ればこちらは断るつもりかときかれたのでまだなんともわからないけれどその可能性はあるというように答えたと思いますが気持ちはそっちにいっていること丸わかり。この業務のためになにか勉強しているかときかれたので、一長一短でやれる仕事ではないとわかっているが援助職の作文に向けて勉強しているので前職との関わりで知ったことだけだと答えました。最後に自己PRを簡潔にお願いしますと言われたのですが、何を言っていいのかわからず、もしご縁があれば一生懸命にやらせていただきたいとは思っていると答えました。たぶん全く答えになっていないですね。こんなちぐはぐな面接が正解だとは思えず、うまくやれる人はきっともっとうまくやれるのだろうなと思います。わたしはこんなバカがつくような正直ベースでしかやれない、これで今まで生きてきてしまいました。あほだなと思います。もし援助職の面接に呼ばれるところまで行けたとしても朝の通勤不安は同じ。どう答えるか。また家をでることも考えているというしかないです。こちらはいちばん早い時間帯からの就業となればどこへ行くにしたって7時33分のバスではアウト。今日はそこまで言わなかったですが駅までの道のり、車がすごく危ないことも大きな不安材料。駅近の集合住宅に越さないかぎりずっとついてまわるいちばんの問題。援助職の書類を出すにあたっても電話で問い合わせたときすでに伝えました。気がつけば車社会の郷里に対して怒りと憎しみすら抱いている自分、郷里に慣れることができない自分が本当にやり直せるのか、車社会に挫折したことは別に言わなくいいけれど駅から遠い問題は言わざるを得ないし、なんとなく不思議がられる感あり。異邦人だらけの都心と違って個人的なことも気になるのかな。そりゃ不審といえば不審な奴なのかもしれないなあ。済んだことをあれこれ考えても仕方ないです。出来レースなのか否かよめません。おじさんたちの中から選ぶでしょう。往復の電車代1,500円かかっても、言い訳を考えて辞退したいと電話するよりは直接伝えた方がマシ。だからこれでよしとします。明日お昼を食べたら早めにどこかでおやつ食べながらもう一回資料を読み返してから温泉施設に行きますか。おばちゃんばっかりでなんか雰囲気こわいですが汗を流さないとなあ。

孤独な毎日、郷里に慣れようとがんばらないのもひとつ、慣れないものは慣れない。生まれ育った所とはいえ、30年間も離れていたのだから、田舎すぎるのについていけないの、仕方ないです。自分を責めるでないよ、自分。今日のことはもう忘れる、忘れる、「きっと何かが待っている」からさ、そう信じるしかないからさ・・・。

2012年『マウリッツハイス美術館展』_「聖母被昇天(下絵)」

2019年05月09日 12時26分04秒 | 美術館めぐり
『聖母被昇天(下絵)』

ペーテル・パウル・ルーベンス
1622-1625年頃、油絵・板 87.8 × 59.1 cm

「ペーテル・パウル・ルーベンスは当時おそらくどの画家よりも多方面に才能を発揮し、影響力も大きく、その名声は早くからヨーロッパ全土に知れわたっていた。イタリアで数年の成功を収めた(1600-1608)後、南ネーデルランドの執政夫妻お抱えの宮廷画家に任じられたが、よそからの注文に応える自由も保持した。アントワープにアトリエを構え、王の貴族や教会からの委嘱作品を無数に制作したほか、志の行政機関や地元の有力な中産階級の要請にも応じた。

 ルーベンスは祭壇画をはじめ様々な作品の準備として、油彩のスケッチを多数制作した。下準備に描かれるこうした習作は、サイズこそ比較的小さいものの、特大の構図を仕上げるうえで重要な役割を果たし、注文主に完成図を示すのにも役立った。ルーベンスのいわゆる「下絵」(イタリア語でモデッロ)の特徴は、素早し筆遣いで絵具を塗る、スケッチ風の描き方になる。大作を描くのにはアトリエの助手に頼ったルーベンスだが、油彩のスケッチでは巨匠自らが筆をふるった成果を見ることができる。しっかりとした、しかし揺るぎない幅広の筆あとをたどることで、画家の手の動きを想像することができ、こうした所に習作の独立した美術作品としての魅力がある。アントワープの聖母大聖堂の主祭壇を祀る祭壇画を制作する準備段階で描かれた本作、《聖母被昇天(下絵)》はそうした習作の見事な例のひとつといえよう。この名誉ある、重要な祭壇画の委嘱がなされるまでには、実は長い道のりがあった。

 当時プロテスタントの支配した市議会が1581年に、フランス・フローリス(1519/20-1570頃)作《聖母被昇天》を市内で最も有力な聖堂の主祭壇から撤去させた。ローマ・カトリック教会が復権を果たした1585年以降、この絵は行方不明となったようだが、聖堂の参事会は新たな祭壇画を委嘱する判断をなかなか下さず、ようやく1611年に意向が定まった。この年の4月22日、ルーベンスは2種類の「下絵」を高位の聖職者に示し、「聖母被昇天」の二通りの案を披露した。その一方は現在サンクトペテルブルクの
エルミタージュ美術館が所蔵し、もう一方はおそらくロンドンの王室コレクション所蔵の品と思われる。そのご、ルーベンスは教えを受けたオットー・ファン・フェーン(1556-1629)との競合を制して委嘱の指名を受ける。ところがそのまま、数年が経過した。1618年にルーベンスは参事会に再び2種のスケッチを提示する。おそらく7年前と同じものだろう。その後、1619年11月12日に画家と聖堂参事会のヨハネス・デル・リオ会長の間で契約書が作成される。ルーベンスはこの中で、「聖母の被昇天あるいは戴冠の物語を伝える板絵を、参事会員の諸兄を満足させるべく」、才能のかぎりを尽くして「立派に」描くと約束した。報酬は1500ギルダーに定まる。最終的にルーベンスは聖母の戴冠ではなく被昇天を主題に選び、高さ5メートル近くにおよぶ大作を1625年から1627年にかけて描き上げた。」

(『オランダ・フランドル絵画の至宝-マウリッツハイス美術館展』公式カタログより)

→続く