(『母のひろば』64号1969年9月童心社)
「私の娘時代はずっと戦争のなかでした。女学校をでたばかりのころは、それでもまだ絵も描けたし、やさしい美しい色彩がまわりに残っていて、息のつけないような苦しさはなかったのですけれど、それが日一日と暗い、おそろしい世の中に変わっていきました。そんなころに私ははじめて宮沢賢治の作品にふれたのです。
草がぼしゃぽしゃはえていたり、青いりんごの色に暮れていく山なみ、むこうの丘に黒ぐろと消えてのこっている松の群、日本の東北の山野のなつかしい草穂が、私の胸をうってせまり、素晴らしい交響楽のゆたかな音のなかにいる時のように、私にはもう外のものはなにもきこないような気がしました。
ある日のこと「お姉さんは宮沢賢治の話しかしない」と一つ年下の妹が軽蔑をこめて私の話をさえぎりました。それは食事の最中でしたが、私は急に食欲をうしないました。私は家の人と顔をあわす食事どきなど、きまって宮沢賢治の話しかしなかったそうです。宮沢賢治の話がそんなにゾッとすることだとは考えられなかった私には、それはショックなことでした。そして以後、家の中では、私はひそかにその作品を読み返しているだけになりました。
あんなに命のように大せつだった宮沢賢治も年月がたっていまはもう冷静にみられるようになりましたが、20年の童画家生活のなかで、私はまだ一度もその作品のさしえを描いたことがなかったのです。はじめのうちは彼の作品が素晴らしすぎて手も足もだせないと思っていたのですが、いまこうして童心社からたのまれてみると描きたい気持がむらむらとおきて、そんな謙虚なことはいっていられなくなりました。たいていの人は私と宮沢賢治は異質で(もちろん私のていどがひく過ぎるという意味でしょうが)どうなることかと懸念されるようですけれど、私が若いときから宮沢賢治が好きだったということは、通じるところがあるからだとそこは自信をもちます。私ふうに好きなように描いたので、それが私にはうれしくてなりませんでした。この本は私の大せつな宮沢賢治です。」