イギリスへの旅の思い出 _ 小説「嵐が丘」の舞台ハワース
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/a4c1cfa8af1cedb3865f60d04588685a
こちらも2014年の記事ですが、投稿し直します。この時どれぐらい進行していたのかわかりませんが、生まれる前からの股関節脱臼により、右足の軟骨がすり減りつつあると知っていたら、こんなに歩けなかったでしょう。そもそも旅に出ることなどしなかったかもしれません。コロナワク〇〇うっていなし、仮にお財布は可能であったとしても(可能ではないので仮定法過去)、もう飛行機に乗って飛び立つことはできないので知らずに旅できたこと、今となっては幸せだったのかもしれません。
再読したかった岩波文庫の『ジェイン・エア』を再読中。『嵐が丘』は昨年再読しました。ブロンテ姉妹の生涯について書かれた本も読んでみたいです。
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私が4時間歩いた「嵐が丘」の舞台の写真をアップします。古い写真をスキャナーで読み取りました。よろしかったらご覧ください。
「ブロンテ姉妹の生涯
作者エミリ・ブロンテは、荒野に囲まれた村ハワースで育った。『嵐が丘』は彼女が残した唯一の小説で、まだ若い29歳(1847)のときに出版されたものだった。
父親はアイルランドの貧しい農家の息子だったが、上昇志向と世渡りのうまい一面を持ちあわせていて、ケンブリッジ大学へ入学する機会をつかみ、イングランド国教会の牧師となった。結婚して6人の子供をもうけたが、上の娘二人は夭逝し、成人したのは息子のパトリック(1817-48)、三人の娘シャーロット(1816-55)、エミリ(1820-49)、アン(1820-49)だった。母親は末娘のアンを産んだ一年後に亡くなり、伯母が一家の面倒を見た。
つまりエミリは母をほとんど覚えていない。さらに子どものころは、息子パトリックだけを手元に残そうとした父の考えで、姉たちとともに寄宿学校に入れられた。
寄宿学校は劣悪な環境で、上の姉二人が結核で死亡した。姉の者―ロッテが『ジェーン・エア』に描いた非道な寄宿学校は、ここがモデルだ。それからエミリは、ベルギーへフランス語を学ぶために留学したが、ハワースを恋しがり、ふるさとへ戻ってきた。
兄妹は文学を志し、シャーロッテ、エミリ、アンは1846年に男三人の共著として詩集を自費出版した。女の詩人というだけで正当な評価を得られないことを恐れて、男の筆名にしたのだ。しかし、たった二部しか売れなかった。
そこで彼女たちは詩をあきらめ、今度は競って小説を書いた。姉のシャーロッテが『ジェーン・エア』を、エミリが『嵐が丘』を、アンが『アグネス・グレイ』を書いた。
しかし姉の『ジェーン・エア』だけが絶賛され、英米で大流行した。シャーロッテは、一躍、ジェーン・オースティンやジョージ・エリオットに並ぶ女流作家としてロンドンの文壇で大人気を博した。一方、『嵐が丘』は、あまりにも激情的で非常識だと黙殺された。
エミリは深く傷つき、失望した。そこへ一家の期待を背負っていた兄が、家庭教師先の夫人と不倫騒動を起こしたあげく自暴自棄になり、酒とアヘンに逃避して自殺同然の死をとげた。
二重のショックから、エミリは、兄の葬儀で引いた風邪の治療を拒み続け、休養もとらず、ついに肺炎にかかった。それでも安静を守らず、家事をしたり荒野を歩きまわったりして衰弱し、ついに居間の長椅子で亡くなった。生きる気力をなくした末の緩慢な自殺と言えるのではないだろうか。
牧師館の居間には、エミリが30歳で息をひきとった長椅子が、そのままに置かれていた。輪私はそこに立ち止まり、しばらく椅子を見つめていた。キャサリンの亡霊ではないが、エミリの無念な想いに満ちた何かがそこに横たわっているような気がしたからだ。『嵐が丘』は、作者エミリの没後、高く評価されるようになり、今では世界的な名作となっている。しかし作家は、やはり生前に理解者をえることこそが無情の喜びなのではないだろうか。
牧師館には、一家の食器、シャーロッテの執筆台、ペンのほか、服や靴も残されていた。ドレスは、今どきの中学生でも着られないくらい小さかった。当時の貧しい食事がしのばれた。
四人の兄妹は二十代から三十代にかけて次々と世を去り、最後に、頑固だった牧師の父が、ただ一人残された。
牧師館に隣接して、墓地があった。歩いてみると、墓石は昔風の大きなものばかりで、歳月に傾いたり苔むしていたりして、いんうつな墓場だ。墓碑を一つ一つ見ていくうちに、ブロンテ姉妹が生きた19世紀初めは、早死にした若者が多かったことがわかった。1817生〰39没などという男性や女性の墓が、朽ちたり欠けたりして並んでいる。エミリの墓は、教会の中にあった。観光客がたむけたのだろうか、ヒースのささやかな花束が捧げられていた。
ハワースは、荒野の丘にできた小さな村だった。石畳の通りを五分も歩けば、家並みは途絶えてしまう。特産の毛織物を売る店などもあったが、人影はまばらだった。秋が始まろうとしていて、ひんやりした空気には、乾いた草の匂いがした。冬になれば、さぞかし殺風景で寂しいところだろう。
だが、エミリは『嵐が丘』に次のように書いている。
「このあたりの人たちは、都会の人間なんかよりもっと真剣に自己に忠実に生きているし、見かけや変化や、移り気な外面的な物事に動かされることが少ない」と。
独身で恋人もいなかったエミリ、無口で神秘を好んだ彼女にも、同じことが言えるかもしれない。」
(松本侑子著『イギリス物語紀行』平成16年2月10日、幻冬舎発行より引用しています。)
遊歩道のコースを紹介した日本語のパンフレットを後日またアップしてみようと思います。
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/a4c1cfa8af1cedb3865f60d04588685a
こちらも2014年の記事ですが、投稿し直します。この時どれぐらい進行していたのかわかりませんが、生まれる前からの股関節脱臼により、右足の軟骨がすり減りつつあると知っていたら、こんなに歩けなかったでしょう。そもそも旅に出ることなどしなかったかもしれません。コロナワク〇〇うっていなし、仮にお財布は可能であったとしても(可能ではないので仮定法過去)、もう飛行機に乗って飛び立つことはできないので知らずに旅できたこと、今となっては幸せだったのかもしれません。
再読したかった岩波文庫の『ジェイン・エア』を再読中。『嵐が丘』は昨年再読しました。ブロンテ姉妹の生涯について書かれた本も読んでみたいです。
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私が4時間歩いた「嵐が丘」の舞台の写真をアップします。古い写真をスキャナーで読み取りました。よろしかったらご覧ください。
「ブロンテ姉妹の生涯
作者エミリ・ブロンテは、荒野に囲まれた村ハワースで育った。『嵐が丘』は彼女が残した唯一の小説で、まだ若い29歳(1847)のときに出版されたものだった。
父親はアイルランドの貧しい農家の息子だったが、上昇志向と世渡りのうまい一面を持ちあわせていて、ケンブリッジ大学へ入学する機会をつかみ、イングランド国教会の牧師となった。結婚して6人の子供をもうけたが、上の娘二人は夭逝し、成人したのは息子のパトリック(1817-48)、三人の娘シャーロット(1816-55)、エミリ(1820-49)、アン(1820-49)だった。母親は末娘のアンを産んだ一年後に亡くなり、伯母が一家の面倒を見た。
つまりエミリは母をほとんど覚えていない。さらに子どものころは、息子パトリックだけを手元に残そうとした父の考えで、姉たちとともに寄宿学校に入れられた。
寄宿学校は劣悪な環境で、上の姉二人が結核で死亡した。姉の者―ロッテが『ジェーン・エア』に描いた非道な寄宿学校は、ここがモデルだ。それからエミリは、ベルギーへフランス語を学ぶために留学したが、ハワースを恋しがり、ふるさとへ戻ってきた。
兄妹は文学を志し、シャーロッテ、エミリ、アンは1846年に男三人の共著として詩集を自費出版した。女の詩人というだけで正当な評価を得られないことを恐れて、男の筆名にしたのだ。しかし、たった二部しか売れなかった。
そこで彼女たちは詩をあきらめ、今度は競って小説を書いた。姉のシャーロッテが『ジェーン・エア』を、エミリが『嵐が丘』を、アンが『アグネス・グレイ』を書いた。
しかし姉の『ジェーン・エア』だけが絶賛され、英米で大流行した。シャーロッテは、一躍、ジェーン・オースティンやジョージ・エリオットに並ぶ女流作家としてロンドンの文壇で大人気を博した。一方、『嵐が丘』は、あまりにも激情的で非常識だと黙殺された。
エミリは深く傷つき、失望した。そこへ一家の期待を背負っていた兄が、家庭教師先の夫人と不倫騒動を起こしたあげく自暴自棄になり、酒とアヘンに逃避して自殺同然の死をとげた。
二重のショックから、エミリは、兄の葬儀で引いた風邪の治療を拒み続け、休養もとらず、ついに肺炎にかかった。それでも安静を守らず、家事をしたり荒野を歩きまわったりして衰弱し、ついに居間の長椅子で亡くなった。生きる気力をなくした末の緩慢な自殺と言えるのではないだろうか。
牧師館の居間には、エミリが30歳で息をひきとった長椅子が、そのままに置かれていた。輪私はそこに立ち止まり、しばらく椅子を見つめていた。キャサリンの亡霊ではないが、エミリの無念な想いに満ちた何かがそこに横たわっているような気がしたからだ。『嵐が丘』は、作者エミリの没後、高く評価されるようになり、今では世界的な名作となっている。しかし作家は、やはり生前に理解者をえることこそが無情の喜びなのではないだろうか。
牧師館には、一家の食器、シャーロッテの執筆台、ペンのほか、服や靴も残されていた。ドレスは、今どきの中学生でも着られないくらい小さかった。当時の貧しい食事がしのばれた。
四人の兄妹は二十代から三十代にかけて次々と世を去り、最後に、頑固だった牧師の父が、ただ一人残された。
牧師館に隣接して、墓地があった。歩いてみると、墓石は昔風の大きなものばかりで、歳月に傾いたり苔むしていたりして、いんうつな墓場だ。墓碑を一つ一つ見ていくうちに、ブロンテ姉妹が生きた19世紀初めは、早死にした若者が多かったことがわかった。1817生〰39没などという男性や女性の墓が、朽ちたり欠けたりして並んでいる。エミリの墓は、教会の中にあった。観光客がたむけたのだろうか、ヒースのささやかな花束が捧げられていた。
ハワースは、荒野の丘にできた小さな村だった。石畳の通りを五分も歩けば、家並みは途絶えてしまう。特産の毛織物を売る店などもあったが、人影はまばらだった。秋が始まろうとしていて、ひんやりした空気には、乾いた草の匂いがした。冬になれば、さぞかし殺風景で寂しいところだろう。
だが、エミリは『嵐が丘』に次のように書いている。
「このあたりの人たちは、都会の人間なんかよりもっと真剣に自己に忠実に生きているし、見かけや変化や、移り気な外面的な物事に動かされることが少ない」と。
独身で恋人もいなかったエミリ、無口で神秘を好んだ彼女にも、同じことが言えるかもしれない。」
(松本侑子著『イギリス物語紀行』平成16年2月10日、幻冬舎発行より引用しています。)
遊歩道のコースを紹介した日本語のパンフレットを後日またアップしてみようと思います。