愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

12月8日「真珠湾」を慰霊する日米戦没者の慰霊を続ける医師菅野寛也の思いは憲法9条だな!だが、ヒロシマ・ナガサキ・ナンキンなどが、未だに残っている!その現実は「日米同盟」にあり!

2017-12-09 | 明治150年

「真の和解」とは何か!

どのような状態が「真の和解」ということか!

日米の「真の和解」とは、日米核兵器軍事同盟を廃棄することだ!

対等平等の憲法を活かす日米平和友好条約を締結することだ!

日中韓朝の「真の和解」とは、

領土問題を解決することだ!

侵略戦争責任問題の真の解決だ!

世界に向けて発した国家の最高放棄である憲法を活かす政治を具体化することだ!

両国の首脳が日米双方の犠牲者に哀悼の意を表すことで

真の和解が進み、世界平和にもつながっていくはず

12.8とはどんな日か!東京新聞と赤旗でしか書かれていない悪夢の12.8!戦争をじわじわと準備されてくる!双葉のうちに芽を摘むことが必要不可欠!マンネリを排除して! 2017-12-08 | 明治150年

米軍兵士の水稲に匹敵する戦争遺産はたくさんある!

この遺産を丸ごと捉え戦争犠牲者に報いるためには

戦争につながるすべてを否定するこだろう!

それは憲法を活かすことだ!

これには一切の妥協は認められない!

 NHK 太平洋戦争開戦の日 各地で戦争を考える催し 12月8日 20時59分

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171208/k10011251981000.html?utm_int=news-social_contents_list-items_043

12月8日は76年前、ハワイの真珠湾攻撃などで太平洋戦争が始まった日です。各地で戦争について考える催しが開かれました。

昭和16年12月8日、旧日本軍がハワイの真珠湾を攻撃、マレー半島に上陸するなどして太平洋戦争が始まってから8日で76年となり、各地で戦争について考える催しが開かれました。このうち名古屋市名東区にある資料館「ピースあいち」では市民などから寄せられた戦争に関する資料をおよそ420点を紹介する展示会が始まりました。
8日は中国などに従軍した叔父の遺品を寄贈した名古屋市の小笠原淳子さんらが招かれ、講演しました。小笠原さんは叔父の軍隊手帳を見せ、生活が苦しく志願して軍隊に入ったことや、手帳には一日も欠かさず戦闘の状況が書き込まれていたことを語りました。会場にはこのほか、開戦を伝える新聞や空襲の際の国民の行動を定めたポスターなど当時を伝える資料が展示されています。ピースあいちの野間美喜子館長は、「今も戦争の遺品や資料がたくさん持ち込まれていますので、多くの人に見に来てもらいたい」と話していました。
一方、高知市の中心部にある商店街では市民団体が旧日本軍の召集令状、いわゆる「赤紙」を再現したチラシを配って、平和の大切さを訴えました。チラシは実際に高知県で使われた召集令状が再現されていて、集合場所や時間、所属する部隊などが記載されています。市民団体のメンバーは買い物客などに「きょうは太平洋戦争が始まった日です。戦争のない平和な世界を作りましょう」などと声をかけながらチラシを配っていました。チラシを受け取った高知市の60代の男性は「戦争が繰り返されないためにも太平洋戦争の開戦日に平和について考えることは大切だと思います」と話していました。市民団体の畑山佳代会長は、「若い人たちに平和な社会が続くために何をしなければいけないのか、太平洋戦争が始まった日に改めて考えてもらいたいです」と話していました。
8日はこのほか、ハワイのホノルル市と姉妹都市で、真珠湾攻撃を指揮した山本五十六連合艦隊司令長官の出身地でもある新潟県長岡市では、花火を打ち上げて、太平洋戦争の犠牲者を追悼しました。(引用ここまで

12月9日「おはよう日本」で放映されていた!

 明日への言葉  菅野寛也(日米戦没者の慰霊を続ける医師)・【戦争・平和インタビュー】 2017年8月19日土曜日

http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/08/blog-post_19.html

 
菅野寛也(日米戦没者の慰霊を続ける医師)・【戦争・平和インタビュー】
真珠湾、たったひとりの慰霊祭
84歳、少年時代2000人以上が犠牲になった静岡空襲を体験した菅野さんは、昭和47年から45年間にわたって空襲の犠牲となった市民と、静岡市内に墜落したB29のアメリカ軍兵士の合同慰霊祭を続けて来ました
平成3年からはハワイの真珠湾を毎年訪問し、真珠湾攻撃で沈んだ戦艦アリゾナの上に作られた記念館、アリゾナメモリアルで日米戦没者の慰霊を続けています。
その活動は年々広がり、去年初めて開かれた日米両国の公式の追悼式典の実現に繋がりました。
安陪総理大臣とアメリカの当時のオバマ大統領の共同会見も行われ、菅野さんも出席しました。
菅野さんは敵味方無く死者を悼むことこそ、平和への道筋だと考えています。

静岡に空襲のあった6月に静岡で、真珠湾攻撃のあった12月にはハワイで、それぞれ慰霊祭を開催しています。
元々は静岡空襲の慰霊祭で日米双方の犠牲者の御霊を安かれと言うことで始めた行事なので、日米の列席を求めて、献酒、献花、焼香が済んだあとで、B29の戦死者の遺品の水筒の中にバーボンを入れて、米軍関係者が一人ずつ献酒しています。
毎年200人ぐらい、横田の米国軍の人達40~50人ぐらいが参列してくださっています。
真珠湾の方は真珠湾攻撃の生き残り、生存者協会があるが、一般の人も多くなった感じです。
関係者が短いスピーチをした後で、牧師さんが祈祷してアリゾナの甲板から真珠湾に向かって献酒する、小さいが厳かな雰囲気で行われます。
鎮魂慰霊ということは国境とか民族、時代も越えて、人類共通の気持ちだろうと思います。
静岡では日米双方に犠牲者が出ている、日本の市民だけの慰霊祭をやっていたらアメリカの人たちにはその気持ちは通じないです、逆も同じです。
死んでしまえば敵も味方もない。
両国の合同慰霊祭をやらなければ、ほんとうの和解とか理解は得られないんじゃないかと思います。

当時11歳、毎晩B29が大編隊で空襲に来ました。
富士山を目標に来ていて、東京がまたやられているなあと言っていました。
11時過ぎにラジオで少数機が伊豆半島を西北進行と云う放送が入って、父がこれはいつもと違うと言ってました、市の中心街に火の手があがりました。(焼夷弾攻撃)
安陪川に逃げて、河原の近くにあった土管の中に隠れていました。
「落ちるぞ」と云う声があり、爆弾かと思ったら敵機が衝突して落ちたようだった。
一機が安陪川の安西橋の近くに、もう一機川向こうによたよた飛んで行った。
町は黒こげの真っ平らな土地だった。(皆焼けてしまった)
防火用水の中に上半身を突っ込んで、黒こげで死んでいるのを見ました。
敵愾心もわいてきたし、これでは戦争は負けではないかと思ったりしました。
B29の残骸にはアメリカ軍23人いたが、何人かの遺体をみました。
それを見て中には石をぶつける人もいました。
私はこいつらも戦争の犠牲者だとは一瞬思いましたが、口には言えませんでした、回りから袋叩きに会いますから

祖父が日露戦争で満州で戦っていたときに、弾が飛び交う中で、ロシア兵の戦傷者にも手当をしたと、これが軍医の務めだと、私が小さい頃祖父から聞いていました。
敵兵だけどもし生きていれば祖父だったら、手当をしたんではないかと私は考えたんでしょうね。
昭和47年に静岡市で初めて日米合同慰霊祭をしました。
医者になって静岡に帰って来て、浅間神社のある賤機山(しずはたやま)に登った時に、平和観音像の横にB29墜落搭乗者の碑を見て、一瞬思い出したが、慰霊碑を建てた人がいたことが吃驚したと同時に、山の上に石文を作る人が凄い人だなと思いました。
伊藤福松さんが建てたということが判り、話をしたいと思いました。
伊藤さんも死んでしまえば敵も味方もないということでした。
伊藤さんは当時市会議員だったそうで、伊藤さんのお兄さんの桑畑に落ちたそうです。
最初木の十字架を立てたそうですが、その後伊藤さんはB29の死者を弔うために修行をして坊さんに成ったと聞いています。
私財をなげうって、静岡市民のための慰霊の観音像と、B29の石文の碑をつくったということです。

米軍にそのことを連絡して、反応は早かった、2~3日の後で電話がかかってきて、アメリカ兵の人たちと一緒に慰霊祭をやりませんかと云うことで、昭和47年に大使館のひとを含めてバス2台で80人ぐらい来ました。
それが日米合同慰霊祭のスタートでしたが、なんでアメリカ兵を弔うんだと抵抗はありました。
間接的にもありましたが、直に私の方に2~3人来て言われました。
或るおばあさんが最初反対だったが、2から3年してから「有難う」と私に言って下さって、判ってくれて良かったと思いました。
あとの懇親会で、或る人が「ここへきて日本に対する印象が全く変わりました、有難うございました」と言ってくれました。
亡くなった方は新婚早々の御主人だったそうです。
それを聞いた時には慰霊祭をやって本当によかったと思いました。
B29の搭乗員の遺品の軍用水筒、燃えさかるB29の中で指の関節の跡までくっきりと残っている、死の瞬間まで握っていたんでしょう
たった一つの遺品で、慰霊祭の時にバーボンを入れて慰霊碑に注ぐというセレモニーを行っています。

兵士の死の瞬間を記録する様な水筒でも水は漏らない。
墜落しないで帰っていたら、バーボンを飲んでいるだろうなと思って、この水筒にバーボンを入れて献酒する、インパクトの強い行事の様で献酒をしてきたことが広がる訳です。
慰霊祭のシンボルなのでこの水筒は宝物、平和の武器かもしれません。
慰霊祭を続けてきてよかったと思います。
慰霊祭、鎮魂式、戦死者に対する行事はよりアメリカでの反響の方がはっきりしている。
どんどん広がって評価してくれています。
真珠湾攻撃ではアメリカ側は民間人を含む約2400人、日本側は65人でした。
平成3年(日米開戦50年)ハワイの真珠湾でも慰霊を行おうと決心しました。
戦争のはじまった土地で慰霊祭をするということは意義があるのではないかと、その年の夏にハワイに行きましたが、大変厳しい空気でした。
想像は或る程度していたが、アメリカ人に知ってもらわなければならないと思って、自分はこういうことをしていると言うことを知ってもらいたいと思って、12月にたった一人で慰霊に向かいました。

聖水を桟橋で献水して帰って来ました。(たった一人の慰霊祭これが最初)
一回だけでは意味がないと思った。(続けなければ成果は出ないと思いました)
恨みつらみはあると思います、日本人のくせになにしに来やがったと、数年は突っかかって来る人はいました。
しかし、水筒を見せて、説明をすると全然ガラッと変わってしまいます。
日本に対するイメージを打破しようと、そういう意味では20数年かかったけれども、それなりの目的、成果はあったと思います。
2年目からはアメリカ海軍の人たちがプライベートでエスコートしてくれました。
段々広がってきて、たった一人で慰霊祭で行ったことが、きっかけにはなったかなあと思います。
あなたと水筒がないと式が始まらないよといわれました。

日米双方の戦死者の慰霊をアメリカの海軍と日本の領事館の主催で行われ、80名ぐらいでやりましたが、吃驚したのは両国の国旗が入場してきて、両国国家の吹奏が行われました。
まさかアリゾナの沈んでいるところで、君が代が吹奏されるとは思わなかった。
恨みつらみのある場所で君が代を聞いた時は身震いするほど感激しました。
12月には日本の総理大臣とアメリカ大統領が真珠湾で一緒に戦没者の慰霊が行われました。
もっと早く実現してほしかったなあと思うことと、安陪総理もオバマ大統領もまず第一に慰霊鎮魂と云う意を表してくれました。
かつての敵同士は本当に心底から理解しあえるかどうか判りませんが、お互いの国の犠牲者を鎮魂するということは、心に伝える行事だから、親善だとか、和解だとかの結果をもたらすには、まず第一にそのようなことをやらなければ始まらないと思います。
心が通じなければそれ以上は進まない。
最後は人間は心の問題だから、理屈ではなくて、お互い共通の辛さがあったと言うようなことをお互い認め合ったり、悲しみだとか、そういうものを認め合うことによって、人種の壁、宗教の壁、言葉の壁、そういうものを取り除くことが慰霊祭はできるんだと言うことで私は続けてきているし、そうなっているわけですから。
謝罪と云うことは物凄く難しい、謝罪をしても謝りにならないこともあるわけです、却って恨みつらみに火を付けることもあり、難しい。
84歳になり、後何年続けられるか、できるだけ続けられるように活動するのが目標です。
国家とか自治体とか、力を持った者が顔を向けてほしいです。
私がいけなくなった時にはどうしようとすることは、相談しようと思っています。(引用ここまで
 
静岡新聞NEWS 真の和解、真珠湾から 日米追悼式典参列の医師、首相訪問に期待 2016/12/26 17:18
http://www.at-s.com/news/article/topics/shizuoka/314184.html

 米軍兵士の遺品である黒焦げの水筒を持つ菅野寛也さん。安倍晋三首相の真珠湾訪問を「真の和解が進む」と期待する=24日午前、静岡市葵区米軍兵士の遺品である黒焦げの水筒を持つ菅野寛也さん。安倍晋三首相の真珠湾訪問を「真の和解が進む」と期待する=24日午前、静岡市葵区

安倍晋三首相が日本時間28日、ハワイの真珠湾を慰霊のために訪問する。静岡市で日米双方の戦没者を弔う合同慰霊祭を40年以上続け、旧日本軍が奇襲した真珠湾攻撃から75年になる8日(日本時間9日)に現地で開かれた初の日米合同追悼式典に参列した静岡市葵区の医師菅野寛也さん(83)は「これで真の日米の和解が進む」と期待する。
「まさかここで『君が代』が聴けるとは。身震いした」。米ハワイ真珠湾に浮かぶフォード島で開かれた日米合同追悼式典。菅野さんによると、日米双方から約80人が参列、両国旗が掲げられる中、米海軍が両国歌を演奏した。真珠湾攻撃による米側の犠牲者約2400人と、撃墜されるなどした日本側死者65人の冥福を祈った。菅野さんは「国に殉じた日本人のみ霊もようやく成仏できる」との思いがよぎったという。
菅野さんは1945年6月の静岡空襲を体験した。戦後、空襲で死亡した市民約2千人とともに、爆撃中に墜落死した米軍機B29搭乗員23人を「死んでしまえば敵も味方もない」と、慰霊を続ける元静岡市議で僧侶伊藤福松さん(1892~1979年)の姿勢に感銘を受けた。伊藤さんの遺志を継ぎ、静岡市葵区の賤機山山頂で40年以上にわたり毎年6月に日米合同慰霊祭を続けている。
91年からはほぼ毎年、日米双方の戦没者の慰霊のために真珠湾を訪れている。菅野さんは当時を「真珠湾は米国人の聖地。『日本人が何しに来た』と白い目で見られた」と振り返る。たった一人で、B29搭乗員の遺品である黒焦げの水筒から真珠湾に水を注いだ。
黒焦げの水筒を示し、静岡での取り組みを説明すると、次第に退役軍人らが協力してくれるようになった。これまで個人的に開催してきた追悼行事は今年初めて米国立公園局などが主催者になり、約200人が集まった。
菅野さんは安倍首相の真珠湾訪問について「以前から国による公式な追悼が必要だと思っていた。私の思いが通じたようだ」と喜ぶ。「慰霊し、死者の魂を鎮めることは人の心に直接訴える行為。文書上の友好とは異なる。両国の首脳が日米双方の犠牲者に哀悼の意を表すことで真の和解が進み、世界平和にもつながっていくはず」と期待している。(引用ここまで

パールハーバー「黒焦げの水筒」慰霊祭

http://www.mo-hawaii.com/category/veteran/75993

静岡空襲の犠牲者悼む 賤機山で合同慰霊祭
http://www.at-s.com/news/article/topics/shizuoka/373782.html

毎日新聞 首相、真珠湾へ  米兵も弔い続け40年 医師、追悼式に 2016年12月6日11時50分

 米軍爆撃機の搭乗員の遺品「黒焦げの水筒」を手に持つ菅野寛也さん=静岡市葵区で2016年11月29日午前11時21分、井上知大撮影

安倍晋三首相が今月26、27日にハワイを訪れ、オバマ米大統領と日米開戦の発端となった真珠湾を訪れる意向を示した。日米双方の戦争犠牲者の慰霊を40年以上続けてきた静岡市の医師、菅野寛也さん(83)は以前から「安倍首相にも、ぜひ真珠湾で慰霊してほしい」と望んでいた。菅野さんは、真珠湾攻撃から75年になるのを記念して8日(日本時間9日)にハワイで戦後初めて日米両国が共催する追悼式典に招かれており、安倍首相の訪問に先立ち平和を願う。菅野さんは国民学校6年生だった1945年6月、市民約2000人が犠牲になった静岡空襲を経験した。こ…(略)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 民進分裂響き、野党、共闘に... | トップ | イスラエルの首都エルサレム... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

明治150年」カテゴリの最新記事