2012年9月9日(日) 晴れ 33.4度
〝日曜日”なんと素敵な言葉だったことでしょう。現役で働いた若いころは週休2日制ではない。
有給休暇は年間20日ではなく勤続年数によって日数が決まっていた。初任者の時は7日だったかな?記憶が薄れて日数は定かではない。勤務年数で有給休暇の日数が違う。1年間で1日増えることだけは鮮明に覚えている。
あれから何年経ったでしょうか。日曜日が待ちどうしくて仕方がなかった。今は、退職し再就職しないので毎日が日曜日。時間の使い方に戸惑う。幸い好奇心旺盛で、いろいろな講座に参加したり、家庭菜園に精を出したりして過ごしている。
畑と道路との境の竹垣が朽ちてしまったのでフェンスを新しくした。いつも近所の保育園児や散歩する方が花や作物を見て話しかけてくださる。殺風景の空間にして置くわけにもいかず花苗を買い求め植栽した。植栽したのは日々草やマリーゴールドでした。見どころのある花壇ができてよかった。
6月3日(月)旅行五日目 曇り、晴れ 大浦天守堂
いよいよ旅行最後の日となった。大きな荷物やお土産は昨夜宅急便で送る手配をしたので小さな手荷物を持ってバスに乗った。
出発は少し早めの午前8時。石畳の坂を上って観光名所の大浦天守堂へ。早い時間帯だったので土産物店もあまり開いておらず坂道も混んでいなかった。堂内に入り参拝した後ガイドさんの説明を聞きながら見学。詳しいことは以下の引用の通りです。(長崎市のホームページより)
大浦天主堂は二つの歴史的出来事と密接に関わっています。
一つは、言うまでもなく大浦天主堂の正式名称である「日本二十六聖殉教者天主堂」からもわかるように、1597年日本で最初に殉教した日本26聖人たちに捧げられた教会です。そのため、大浦天主堂は殉教の地である西坂に向けて建てられています。
もう一つは、1865年におきた信徒発見です。大浦天主堂が1864年にたてられ、翌1865年2月から公開が始まった一ヶ月後に浦上の隠れキリシタン達が信仰告白をして名のりを挙げました。プチジャン神父は大喜びでフランス、ローマに報告しています。
1.設計から建造、祝別まで
パリ外国宣教会フューレ神父は、文久3年(1863)1月22日に来崎し、
2月14日南山手の外国人居留地に隣接した現在地を入手しました。
次で、8月初旬に来崎した同宣教会プチジャン神父の協力を得て、ジラール、フューレ両神父の設計図をもとに、同年12月熊本県天草出身の棟梁、小山秀と契約をなして、天主堂建立に着手しました。天主堂はプチジャン神父の指導で建てられ、煉瓦造の教会ですが表面は漆喰で白く塗られています。
元治元年(1864)12月29日に工事は俊工し、翌年慶応元年(1865)2月19日、パリ外国宣教会日本管区長ジラール神父を始め、フランス領事、長崎港内に停泊中のフランス、ロシア、オランダ、イギリス各国の軍艦艦長臨席のもとに荘厳に祝別式を行い、『日本二十六聖殉教者天主堂』と命名して落成祝いを盛大に挙行しました。
天主堂は、守護の聖人たちの殉教地である西坂の聖地に向けて建てられ、工費に3万フラン以上を要しました。日本では地名をつけて呼ぶ習慣があり、通称『大浦天主堂』と言います。
2.改築及び修復
禁教令の高札がとられ、信徒が増加したので教会が手狭になり、改築しました。明治12年(1879)、外壁を煉瓦構造にするとともに、間口を左右に1間ずつ拡げ、奥行きも深くして当初の2倍の大きさに拡張し、ゴチック建築様式にしました。
昭和20年(1945)8月9日、原爆投下によって屋根、正面大門扉、ステンドグラスその他の部分に甚大な被害を受け、昭和27年(1952)6月30日、国庫補助により、5ヶ年の歳月を費やして修復工事を完了しました。
3.国宝の指定
本聖堂は、我国洋風建築輸入の初頭を飾る代表的なものです。
昭和8年(1933)1月23日、文部省により国宝に指定され、更に昭和28年(1953)3月31日、文化財保護委員会によって、再指定されました