会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

浅田次郎講演会

2013-09-23 22:04:02 | Weblog
2013年9月22日(月)晴28.7℃~13.5℃

作家で日本ペンクラブ会長の浅田次郎氏の講演会が午後3時半から会津若松市の会津大講堂で開かれた。聴講は無料だが往復はがきで申し込みが必要であった。演題は「徳川幕府のしくみ」。
 
 市長の挨拶でも紹介されたが、浅田氏は『会津とは縁が深い。何の伝があるわけではないのだが、子どもの時分から今日まで、折に触れてお訪れているのである。幼いころのキャンプや、高校時代に一夏過ごした早稲沢の学生村、猪苗代や裏磐梯へのスキー行。アパレル業界での仕事でもいくどか会津若松にお邪魔した。職業作家になってからは、取材のためにやはりしばしば通っている。・・・略』
 という会津とのご縁という切り出しから講演がはじまった。
 内容は多岐にわたっているので全部をアップできませんが、自分なりに聴き取ったことをランダムに書いてみます。
  
 一つは、江戸に徳川家康が幕府を開いたのは、秀吉による家康の関東移封はである。現代でいえば良い意味での左遷だったと思います。箱根の坂より西である三河・駿河は、関東に比べれば先進地帯でした。家康の移封により、関東が発達する可能性が有ったし、未開の関東に飲み込まれて徳川家が潰れたら、秀吉にとってはそれでも良かったわけです。家康は地形に目をつけ、丘陵地帯を削り、江戸湾を埋め立て広い土地を作った。また、海運に江戸の繁栄を願った。その願い通り、江戸時代約260年は幕府初期の島原の乱と幕末の戊辰戦争以外は国内で戦争がなく日本独自の文化が華を咲かせ平穏な時代が続いたのである。

 二つは、政治の仕組みが現代のように中央集権のピラミット型でなかったことである。将軍の下に老中(4~6人)と若年寄(4~6人)がおり、その下に寺社奉行、勘定奉行、町奉行などが月番(1ヶ月勤務して1ヶ月休む)で務めた。老中は5万石以上の大名で全国支配の担当である。若年寄は5万石以下の大名で旗本や御家人の支配を軸とする将軍家の家政を担当した。(詳しくは大御所、大老、大目付などの役もあった)

 三つは、各大名の挌である。1万5千坪の本丸御殿は表・中奥・大奥が南から北にこの順で存在している。表は将軍謁見や諸役人の執務場、中奥は将軍の生活空間であるが、政務もここで行っていた。大奥は将軍の夫人や女中が生活する空間である。大奥は表や中奥とは銅塀で遮られており、一本(後に二本)の廊下でのみ行き来ができた。
 表には江戸詰となった大名が諸行事のたびに登城する。その時の部屋など席が決まっていた。将軍席の近くには、高松松平、会津松平、井伊家(譜代筆頭大名)、続いて御三家(尾張、紀伊、水戸)、前田家(外様筆頭大名)・・・。石高とか役職とか、徳川家との縁などを含めて挌という。

 四つは、参勤交代である。1年ごとに国元と江戸を行列をつくって行き来する。江戸に近いところは半年ごとであった。津軽藩や松前藩は免除されていた。五街道が整備され、宿場が栄え、助郷など・・・。助郷(すけごう)は、日本における労働課役の一形態。江戸時代に、徳川幕府が諸街道の宿場の保護、および、人足や馬の補充を目的として、宿場周辺の村落に課した夫役のことを言う。

 五つは、黒船来航である。ヨーロッパで起きた産業革命。資本主義による植民地化競争。中国(清王朝)の衰退などが日本の開国を促し、植民地化されることを防いだ明治維新。 鹿鳴館など欧米に追い付け追い越せが極端になり江戸文化が排除された。各地の城の取り壊しや神仏分離と廃仏毀釈(神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などを急激に実施したために、混乱した。明治4年(1871年)ごろ終熄したが、影響は大きかった。)今にして思えば貴重な江戸の文化遺産が無くなってしまったことが残念でならない。城の取り壊しをせず守った姫路城、松本城など幾つか現存しているのは地域の力だったのだろう。