アンダンテのだんだんと日記

ごたごたした生活の中から、ひとつずつ「いいこと」を探して、だんだんと優雅な生活を目指す日記

戦争が音楽に作った国境

2017年10月05日 | ピアノ
パブロ・カザルス(カザルス)、アルフレッド・コルトー(ピアノ)、ジャック・ティボー(ヴァイオリン)は、元々一人ひとりが世界的な演奏家なので、それが集まった三重奏団は史上最高とも音楽史上の奇跡とも言われた。

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もちろん、よいソリストをただ束ねればよいトリオができるとも限らないけれど、この場合は人としての相性、音楽の相性も良かったのだろう。それぞれ出身国も違うこの三人が、そうやって名演奏を30年ほども続けたところは、まさに「音楽に国境なし」といったところだったのに…

この関係をブチ壊したのはナチスの台頭だった。そのころ、「ナチスに対してどういう態度を取るか」ということは生死も分ける大きな岐路だったので、この信条に大きなズレがある以上、一緒に活動することはもはやできなかったのである。

「戦争交響楽 音楽家たちの第二次世界大戦」(中川右介)
には、世界大戦前後にそれぞれの音楽家たちが、人と、政治と、国とどう関わりながら演奏活動をし、あるいはできなくなったりしていったのかがぎっしりと書かれている。その、ひっからまったややこしさは、前に「希望のヴァイオリン ホロコーストを生きぬいた演奏家たち」を読んだときとはまた次元が異なる。

ユダヤ系の音楽家であればとにかくナチスから可能な限り速やかに逃げることしか選択肢はないわけだが、
(そして不幸にして収容所に入ってしまった場合はあまり選択肢自体がなく、ともかく希望を捨てないでレアな可能性に賭けるしかない)

そうでないならここは考えどころだ。ナチスに協力してドイツで演奏活動することを選ぶのか、あるいは…

フルトヴェングラーのような、すでにその時期に名声を確立した大音楽家であれば、別にナチスに媚びを売る必要はなく、むしろナチスが利用したくて擦り寄ってくるくらいのものだ。
しかしカラヤンはこれから名前を売っていこうという駆け出しの指揮者だったからそういうわけにもいかない。実際彼が何をどう考えたかはわからないが、ともかく彼はナチス党員になるという方法を選択する。

後世から見た勝手な視点でざっくりいえば、
ナチスに擦り寄っておけばドイツ国内で順調に音楽活動できるが、そうしてしまうと戦後に非難を受ける(裁判にかけられるかも)
というジレンマということになる。

たとえば、名ヴァイオリニストであったアドルフ・ブッシュはユダヤ系ではなかったけれど、妻がユダヤ系だっこと、ずっといっしょに演奏してきたルドルフ・ゼルキンがユダヤ系だったのもあって反ユダヤ的傾向が強まってきた1931年にはもうスイスに移住している。ナチス政権としては、ドイツを代表するヴァイオリニストであるブッシュがユダヤ系ピアニストと共演しているのはどうにも都合が悪く、ゼルキンを「名誉アーリア人」として扱うという親切な(!)申し出をしたが、ゼルキンもブッシュもそれを断り、1933年にはアメリカに渡る。

21世紀になってこの本を読んでいる私からすればみんなさっさとアメリカかどっかに逃げてそこで音楽活動とかナチス政権批判とかするのが安全でいいんじゃないかとも思ってしまうのだが、そんなに誰も彼もアメリカに行きたがったわけではなく、やはりクラシック音楽の本拠地であるヨーロッパからは離れがたいと思う人も多かったようではある。

ゼルキン、ブッシュをアメリカに誘ってくれたのはトスカニーニで、彼はわりと安全な地(アメリカとか)から効果的にナチス批判をしたように見える。彼はイタリア出身なので、ナチスというよりムッソリーニと対立してアメリカに来たのだけど、彼はアメリカにいるほかの音楽家と連名でナチスに抗議の電報を送ったり、ナチスに抵抗・対抗する地で精力的に音楽活動を行ったりしている。

ヒトラーは激怒してトスカニーニたちの入国を禁止したりレコードを買うことを禁じたりしたけれど、ともかく捕まって殺されたりしない場所にいることが重要だよね。

フルトヴェングラーは既に大物だったのだからそのポジションを利用すればずいぶん大きなことができたのではないかとも思うが、そして彼は別にナチスを応援したかったわけでもなく反ユダヤ思想を持っていたわけでもないらしいが、結果的にはナチスにからめとられていく。

彼はナチス政策によってユダヤ系の優れた音楽家たちが追放されたことを憂慮し、ゲッペルスにあてて手紙を書いている。
「私は究極のところ、ただひとつしか境界線は認めません。すなわち、よい藝術か悪い藝術か、です」
…これは、いくらよい演奏家でもユダヤ系なら即追放という現状に対するもっともな反対意見のようではあるけれど、
ユダヤ差別はよくないといっているのではなく、素晴らしい藝術家であればドイツに必要で、低俗な芸術もどきであれば追放されてもしかたがないということを言っている。

これに対するゲッペルスの返答は
「真の藝術家は稀にしかいません。だからこそ彼らは保護育成され保護されなければならないわけです」
「政治もまた藝術であり、おそらく最高の、もっと包括的な芸術であります」
などとなっている。この噛み合っているようないないような議論ではゲッペルスのほうが明らかにうわてで、そんなこんなでフルトヴェングラーは負けたという意識もないままナチスの宣伝塔として活躍させられることになるのだ。

どうもフルトヴェングラーは、いくら優れた指揮者とはいっても(政治、国際情勢を読む)おつむは弱かったようで、いろいろとピンボケなことをしては反ナチスの音楽家たちをちょびっとだけ助けたり、逆に大きく呆れられたりということを繰り返していた。

この、ちょっと頼りないフルトヴェングラーさんがこの本の経糸として最初から最後までをつないでいる。戦後の裁判で、彼が無罪になったのは(いくら悪気がなかったとはいえ)あれだけナチスに利益を与えたことを考えればかなり危ないところだったという感じだけれど。無罪になったとはいえ、フルトヴェングラーに対しての怒りがおさまらない音楽家たちもたくさんいるので、彼が戦後にシカゴで演奏しようとしたときには抗議多数で頓挫している。

彼はこの拒否にショックを受け「ユダヤ人の感情は理解できます」としながらも「本国にとどまったドイツ人は、自国民から恐るべき方法で抑圧され、脅迫され、あげくの果てに、弾劾の対象にされています。これは、もっと恐ろしいことではないでしょうか」と書いているところから見ると、事態があんまりよくわかってない。

ホロヴィッツや、ルービンシュタインは、戦後になっても、ドイツへ行くことを長く拒み続けた(ホロヴィッツは1986(54年ぶり)にドイツで演奏したが)。

ナチスが消えても、音楽の国境はずいぶん尾を引いた。

カザルス三重奏団ももちろん再結成とかはありえなかった。反ナチスを鮮明にしていたカザルスも戦争時期を生き延びたのだけれど(それどころか80歳になってから20歳の女性と結婚し96歳まで生きた)。

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