「調性に導かれる曲集構成」にも書いたように、調の性格っていうのは、あるようなないような、曲により作曲者によりという感じであまり断定的なことはいえない(言っても意味がない)けど…
←ヴィーク先生、意固地だねぇ。結婚するのもたいへんだ。
ハ長調というのが「純粋無垢」のようなイメージというのは、こればっかりはシャープもフラットもついてないというハッキリした特徴のため、多くの人が昔から思っていたこと。
じゃ「子供の~」みたいな曲はこの調を特に生かして書きそうなものだけど、13曲中、1曲しかない(第9曲、木馬の騎士)。木馬って、メリーゴーラウンドの馬じゃなくてもっと素朴に、箒にまたがってパッカパッカと飛び跳ねれば乗馬の気分的なこんな→「木馬の例」
ものらしい。メリーゴーラウンドだったらもっと滑らかに、つーい、っていく感じだけど、この曲だともっと勢いよくタッタラ~って駆け回っているものね。
確かにハ長調らしく(?)無垢な子供が遊びまわっている曲といってもいいけれど、しかしこの曲集の基準となる調はどう考えてもト長調。ト長調に始まり、上シフト(高揚)、下シフト(落ち着き、安らぎ)、超上シフト(不安)を経由してト長調で終わる。ト長調って何なんだろう。この曲集においては。
この問いに対して、ひとつの決まった正解というのはないけれど、今回のレクチャーでのartomr説:
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これら4曲(注:ト長調である第1, 11, 12, 13)曲の標題に共通する感情、それは「未知」という感情である。標題と音楽的な構造を比較すると、ト長調は「未知のものへ向かおうとする心性」、ホ短調はその感情の裏に潜む「未知のものに対する不安」に照応していると考えることができる。子供とは成長する存在だ。種子であり、可能性を宿したもの。——アリストテレスの概念である「デュナミス」=「可能態」こそ、《子供の情景》から透けて見えるシューマンの「子供」への眼差しだ。
-----
つまり現実にそこいらを駆け回っている子供いうことではなく、もっと抽象的な、成長の可能性を有したもの。それを示しているのがト長調だという説明である。
…ともかく、「子供の情景」の子供というのがあんまり現実感がないというのはまるっと同意。以下は、今回のレクチャーを聞き、ウィーン原典版楽譜にあったシューマンとクララの書簡などを読んだうえでの個人的な妄想なんだけど(artomr先生の合意はないよw):
「ユーゲントアルバム」は本物の子供(シューマンの子供たち)と接したのちの作曲だけれど、「子供の情景」が書かれたのは、シューマンとクララ本人同士では結婚の意思が固まり、しかしクララ父がめっちゃ反対してたのですったもんだしてた頃。結局、父の同意を得る試みはどうやってもうまくいかなくて、裁判で許可を勝ち取って結婚(1840)という流れになるのだけど、「子供の情景」はすったもんだの最中の1838。
ここで出てくる「子供」といったらそりゃリアル子供じゃなくてずばり…
「それから忘れてはいけないことがあります。ぼくが今作曲しているもののことです。それはいつかのきみの言葉の余韻のようなのです。きみはこう書いてきたね。『わたしはときどきまるで子供のようにみえるでしょうね』—— つまりこの言葉で、ぼくはちゃんと広袖の子供服を着ている気分になった。そこで30ほどの愛らしい小品を書き、そのうち12曲ほどを選んで《子供の情景》と名付けました。」(シューマンからクララへ、1838年3月17日)
…クララたんでしょう? 愛しい愛しいクララ、理想の子供としての。
クララも、そりゃもうシューマンに心奪われてはいたけれども、父の許しが得られないままそれを断ち切って結婚に向かう決意だって並大抵のものでは済まないわけで。こういう状況の中、離れて暮らしながら、切実にシューマンが伝えたいことは、ただただ、「思い切ってぼくといっしょに行こう!! 大丈夫、幸せにするよ!!」…
ト長調は「子供の情景」のメイン調かもしれないけれど、むしろ「子供」の様子を直接描いた曲はト長調以外でできている。スリルのある遊び(鬼ごっこ)、満ち足りた幸福、重大な出来事のような、子供としての興奮(前半)はもっとシャープの多い調で書かれ、トロイメライや炉端にてのような安らぎ(ヘ長調)を通り、突然の不安の高まり(第10曲、思いつめて)を経て眠りにつく。夢の世界には詩人(=シューマン)がいる(ト長調)。
ト長調は、子供自体を表すよりむしろ、シューマンの調なのかな、というふうに私は想像(妄想ともいう)しました。
「おととい、子供の情景についてのきみの手紙を受け取りました。ぼくだってこれらの小品を書いたときに、どんなにか熱中しうっとりと夢みたことか。それできみの考えがぼくと同じかって尋ねるのなら、ぼくは胸躍らせて思うのです。『そう、そのとおりだ』と。ぼくがそっと詩作したものが、おそらくはぼくたちの現実になる。そう、ぼくのクラーラ、ぼくを信じて。ぼくたちは完全に幸福になるのだ。これからもずっと誠実に愛しつづけるなら、そしていつも敬虔で、謙虚でありつづけるなら。」(シューマンからクララへ、1838年4月4日)
ここで「きみの考え」というのが何かといえば、同3月24日にクララからシューマンへの手紙にある「昨日も思い、そしてますますそう思えるのです。あそこで話している詩人はわたしのあの方に違いないと。でもあの幸福は大きすぎはしないでしょうか? ああ、わたしにはわからない! 弾くたびにますます魅了されてゆきます。…《みちたりた幸福》はとても安らかな気持ちにしてくれます。そしてヘ長調への移行のところでとても高められます。ここであなたご自身が幸福にみたされたいと願ったのではなくって?」あたりを指しているのだろう。
あぁ~もぅもぅ、汚れっちまったアラフィフとしては、なんといっていいかわかりませんよ(*^^*)
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←ヴィーク先生、意固地だねぇ。結婚するのもたいへんだ。
ハ長調というのが「純粋無垢」のようなイメージというのは、こればっかりはシャープもフラットもついてないというハッキリした特徴のため、多くの人が昔から思っていたこと。
じゃ「子供の~」みたいな曲はこの調を特に生かして書きそうなものだけど、13曲中、1曲しかない(第9曲、木馬の騎士)。木馬って、メリーゴーラウンドの馬じゃなくてもっと素朴に、箒にまたがってパッカパッカと飛び跳ねれば乗馬の気分的なこんな→「木馬の例」
ものらしい。メリーゴーラウンドだったらもっと滑らかに、つーい、っていく感じだけど、この曲だともっと勢いよくタッタラ~って駆け回っているものね。
確かにハ長調らしく(?)無垢な子供が遊びまわっている曲といってもいいけれど、しかしこの曲集の基準となる調はどう考えてもト長調。ト長調に始まり、上シフト(高揚)、下シフト(落ち着き、安らぎ)、超上シフト(不安)を経由してト長調で終わる。ト長調って何なんだろう。この曲集においては。
この問いに対して、ひとつの決まった正解というのはないけれど、今回のレクチャーでのartomr説:
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これら4曲(注:ト長調である第1, 11, 12, 13)曲の標題に共通する感情、それは「未知」という感情である。標題と音楽的な構造を比較すると、ト長調は「未知のものへ向かおうとする心性」、ホ短調はその感情の裏に潜む「未知のものに対する不安」に照応していると考えることができる。子供とは成長する存在だ。種子であり、可能性を宿したもの。——アリストテレスの概念である「デュナミス」=「可能態」こそ、《子供の情景》から透けて見えるシューマンの「子供」への眼差しだ。
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つまり現実にそこいらを駆け回っている子供いうことではなく、もっと抽象的な、成長の可能性を有したもの。それを示しているのがト長調だという説明である。
…ともかく、「子供の情景」の子供というのがあんまり現実感がないというのはまるっと同意。以下は、今回のレクチャーを聞き、ウィーン原典版楽譜にあったシューマンとクララの書簡などを読んだうえでの個人的な妄想なんだけど(artomr先生の合意はないよw):
「ユーゲントアルバム」は本物の子供(シューマンの子供たち)と接したのちの作曲だけれど、「子供の情景」が書かれたのは、シューマンとクララ本人同士では結婚の意思が固まり、しかしクララ父がめっちゃ反対してたのですったもんだしてた頃。結局、父の同意を得る試みはどうやってもうまくいかなくて、裁判で許可を勝ち取って結婚(1840)という流れになるのだけど、「子供の情景」はすったもんだの最中の1838。
ここで出てくる「子供」といったらそりゃリアル子供じゃなくてずばり…
「それから忘れてはいけないことがあります。ぼくが今作曲しているもののことです。それはいつかのきみの言葉の余韻のようなのです。きみはこう書いてきたね。『わたしはときどきまるで子供のようにみえるでしょうね』—— つまりこの言葉で、ぼくはちゃんと広袖の子供服を着ている気分になった。そこで30ほどの愛らしい小品を書き、そのうち12曲ほどを選んで《子供の情景》と名付けました。」(シューマンからクララへ、1838年3月17日)
…クララたんでしょう? 愛しい愛しいクララ、理想の子供としての。
クララも、そりゃもうシューマンに心奪われてはいたけれども、父の許しが得られないままそれを断ち切って結婚に向かう決意だって並大抵のものでは済まないわけで。こういう状況の中、離れて暮らしながら、切実にシューマンが伝えたいことは、ただただ、「思い切ってぼくといっしょに行こう!! 大丈夫、幸せにするよ!!」…
ト長調は「子供の情景」のメイン調かもしれないけれど、むしろ「子供」の様子を直接描いた曲はト長調以外でできている。スリルのある遊び(鬼ごっこ)、満ち足りた幸福、重大な出来事のような、子供としての興奮(前半)はもっとシャープの多い調で書かれ、トロイメライや炉端にてのような安らぎ(ヘ長調)を通り、突然の不安の高まり(第10曲、思いつめて)を経て眠りにつく。夢の世界には詩人(=シューマン)がいる(ト長調)。
ト長調は、子供自体を表すよりむしろ、シューマンの調なのかな、というふうに私は想像(妄想ともいう)しました。
「おととい、子供の情景についてのきみの手紙を受け取りました。ぼくだってこれらの小品を書いたときに、どんなにか熱中しうっとりと夢みたことか。それできみの考えがぼくと同じかって尋ねるのなら、ぼくは胸躍らせて思うのです。『そう、そのとおりだ』と。ぼくがそっと詩作したものが、おそらくはぼくたちの現実になる。そう、ぼくのクラーラ、ぼくを信じて。ぼくたちは完全に幸福になるのだ。これからもずっと誠実に愛しつづけるなら、そしていつも敬虔で、謙虚でありつづけるなら。」(シューマンからクララへ、1838年4月4日)
ここで「きみの考え」というのが何かといえば、同3月24日にクララからシューマンへの手紙にある「昨日も思い、そしてますますそう思えるのです。あそこで話している詩人はわたしのあの方に違いないと。でもあの幸福は大きすぎはしないでしょうか? ああ、わたしにはわからない! 弾くたびにますます魅了されてゆきます。…《みちたりた幸福》はとても安らかな気持ちにしてくれます。そしてヘ長調への移行のところでとても高められます。ここであなたご自身が幸福にみたされたいと願ったのではなくって?」あたりを指しているのだろう。
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