夫と朝一番に見に行く。私達と同じくらいの年代が一番多い。若いカップルもいた。最近、映画館が近くなったように思う。昔は映画を見るのは気合がいった。人気の映画は、どうしても30分以上は並ばないといい席に座れなかった。酷い時は2時間くらい並んだ。
時代劇はあまり見ないのだが「蝉しぐれ」は感動した。ラストは涙が止まらなかった。文四郎は気品があり、凛としていて、武士としての気高さを感じた。日本人としての理想の気高さと日本語の美しさ。そして、美しい緑滴る山や田畑。降り積もる白の風景。清らかな川の流れと、日本の美しい四季の移ろい。絶対に失いたくない、忘れてはいけない私達の生まれ育った原点“日本”の風景。
父だけではなく自分も陰謀に巻き込まれ、始めて人を殺してしまった文四郎。その首謀者である家老に刀を向けて「死んで行く者の気持ちが分かりますか」「死んで行く者の気持ちが分かりますか」「死んで行く者の気持ちが分かりますか」とにじり寄り、振り下ろす。真っ二つになった机のそばで、腰を抜かす家老。
いつの世でも、簡単にお家の為、お国の為、国家の為にと命令で死んで行かなければならなかった人達。今でも“大儀名文”で死地へ行かされる人達。命令する偉い人達は、その人々にも愛する人が、恋人が妻が子供が親がいると言う事を考えた事は無いのだろう。死んで悲しむ人とは自分の身内だけと思っているのだろう。
全体に静かに時が流れるのがいい。言葉は選び抜かれた必要最低限度に、その代わり万感の思いはその顔の表情に、その憂いを含んだ瞳に、袖をつまんだ指先に、柔らかな日の光りと影に。
終わりに、文四郎がふくと最後の別れに向かうために船で川を行く白黒の映像。そしてふくと会いゆっくりとセピア色になり、柔らかい色彩に変化して行く時の別れのシーン。「文四郎様のお子が私の子供であり、私の子供が文四郎様のお子であったらよかったのに」と涙を湛えて静かに言うふく。私自身のセピア色の昔の恋と重なり、涙が止まらなかった。
うるさいく汚い言葉が氾濫する世の中や、もっと騒々しく下品な日本語を平気で流すTVとは別の次元の時間と世界。映画が終わり、文四郎が横たわる小船が川に浮かび、その向こうになつかしい日本の田畑と山々が霞む。美しい音楽が流れ、ゆっくりと出演者達のクレジットが画面を上に流れて行く。館内には静寂だけが流れる。身動きする人の衣擦れ一つ聞こえない。画面が暗くなり明かりがゆっくりと戻ってくるまで、誰一人声もなく静かに座っていた。こんなに余韻を残して見ている人達が共有した映画を見るのは久しぶりだ。
時代劇はあまり見ないのだが「蝉しぐれ」は感動した。ラストは涙が止まらなかった。文四郎は気品があり、凛としていて、武士としての気高さを感じた。日本人としての理想の気高さと日本語の美しさ。そして、美しい緑滴る山や田畑。降り積もる白の風景。清らかな川の流れと、日本の美しい四季の移ろい。絶対に失いたくない、忘れてはいけない私達の生まれ育った原点“日本”の風景。
父だけではなく自分も陰謀に巻き込まれ、始めて人を殺してしまった文四郎。その首謀者である家老に刀を向けて「死んで行く者の気持ちが分かりますか」「死んで行く者の気持ちが分かりますか」「死んで行く者の気持ちが分かりますか」とにじり寄り、振り下ろす。真っ二つになった机のそばで、腰を抜かす家老。
いつの世でも、簡単にお家の為、お国の為、国家の為にと命令で死んで行かなければならなかった人達。今でも“大儀名文”で死地へ行かされる人達。命令する偉い人達は、その人々にも愛する人が、恋人が妻が子供が親がいると言う事を考えた事は無いのだろう。死んで悲しむ人とは自分の身内だけと思っているのだろう。
全体に静かに時が流れるのがいい。言葉は選び抜かれた必要最低限度に、その代わり万感の思いはその顔の表情に、その憂いを含んだ瞳に、袖をつまんだ指先に、柔らかな日の光りと影に。
終わりに、文四郎がふくと最後の別れに向かうために船で川を行く白黒の映像。そしてふくと会いゆっくりとセピア色になり、柔らかい色彩に変化して行く時の別れのシーン。「文四郎様のお子が私の子供であり、私の子供が文四郎様のお子であったらよかったのに」と涙を湛えて静かに言うふく。私自身のセピア色の昔の恋と重なり、涙が止まらなかった。
うるさいく汚い言葉が氾濫する世の中や、もっと騒々しく下品な日本語を平気で流すTVとは別の次元の時間と世界。映画が終わり、文四郎が横たわる小船が川に浮かび、その向こうになつかしい日本の田畑と山々が霞む。美しい音楽が流れ、ゆっくりと出演者達のクレジットが画面を上に流れて行く。館内には静寂だけが流れる。身動きする人の衣擦れ一つ聞こえない。画面が暗くなり明かりがゆっくりと戻ってくるまで、誰一人声もなく静かに座っていた。こんなに余韻を残して見ている人達が共有した映画を見るのは久しぶりだ。