去年は本当に暗い事件や事故があった。そして、酷い生活に落とされてしまった、職と住いのない人々。年が明けて、彼らに暖かい日々が戻るのだろうか。
TVを見ても、能天気にふざけている番組と「死ぬしか方法がないのだろうか」と未来に希望がもてない人々の映像が同居している。何とも、座り心地の悪いお正月。
世界的に不況の嵐が吹き荒れ、そして、ここに来て又イスラエルとパレスチナでの戦争が始まった。TVでしか知る事の出来ない子供達の苦しみや大人達の嘆きに、どうして人々は争いを無くす事が出来ないのだろうと悲しくなる。
日本も、政治を見ても経済を見ても人々の暮らしを見ても、少しは希望を感じられる事はあるのだろうかと、雲一つない冬晴れの青空を眩しく見上げる。
そんな中、日本経済新聞の1月1日の「逆境に克つ」という特集には、非常に元気をもらった。
日本には世界に負けない絶対的な技術が知恵が人々の暖かさがある。
資源の無い日本には立派な人材という資源があったはずだ。戦後の焼け野原から世界有数の経済大国になったのは、真面目な優秀な一般大衆がいたからではなかったかしら。この、不況は、その人材という一般労働者を、日本の風土とあわない方法で、単なる資材と見なして利益を追求した事ではなかっただろうか。
この、日経の記事では、世界に打って出ている企業から小さな山村、そして、医療、子育て、文化、農業、お金から地方自治まで、あらゆる分野での元気が載っている。そして、共通するのは、知恵を出し合って、真面目に様々な事に取り組む人々と、他を思いやる心と、人々の絆。
手垢のついた言葉だけど、やっぱり、人の幸せはお金では買えない、人との繋がりなのでは、と思う。
大企業のトップが、末端で働く人々が人間として見えていたら、そして、彼らが働いてくれているお陰で、自分の裕福な生活が出来るのだと言う事をわきまえていてくれたら、“派遣”と名づけられた人々のお正月は、もう少しマシだったのではと思う。
去年は弱者が“自己責任”という言葉で黙らされた。本当は政治家や経済界のトップこそが“社会的責任”を全うしなければならなかったのではないかと思う。
日本経済新聞の特集のように、今年こそは、国のトップに立つ人々は、私達に夢と安心を示して欲しい。
TVを見ても、能天気にふざけている番組と「死ぬしか方法がないのだろうか」と未来に希望がもてない人々の映像が同居している。何とも、座り心地の悪いお正月。
世界的に不況の嵐が吹き荒れ、そして、ここに来て又イスラエルとパレスチナでの戦争が始まった。TVでしか知る事の出来ない子供達の苦しみや大人達の嘆きに、どうして人々は争いを無くす事が出来ないのだろうと悲しくなる。
日本も、政治を見ても経済を見ても人々の暮らしを見ても、少しは希望を感じられる事はあるのだろうかと、雲一つない冬晴れの青空を眩しく見上げる。
そんな中、日本経済新聞の1月1日の「逆境に克つ」という特集には、非常に元気をもらった。
日本には世界に負けない絶対的な技術が知恵が人々の暖かさがある。
資源の無い日本には立派な人材という資源があったはずだ。戦後の焼け野原から世界有数の経済大国になったのは、真面目な優秀な一般大衆がいたからではなかったかしら。この、不況は、その人材という一般労働者を、日本の風土とあわない方法で、単なる資材と見なして利益を追求した事ではなかっただろうか。
この、日経の記事では、世界に打って出ている企業から小さな山村、そして、医療、子育て、文化、農業、お金から地方自治まで、あらゆる分野での元気が載っている。そして、共通するのは、知恵を出し合って、真面目に様々な事に取り組む人々と、他を思いやる心と、人々の絆。
手垢のついた言葉だけど、やっぱり、人の幸せはお金では買えない、人との繋がりなのでは、と思う。
大企業のトップが、末端で働く人々が人間として見えていたら、そして、彼らが働いてくれているお陰で、自分の裕福な生活が出来るのだと言う事をわきまえていてくれたら、“派遣”と名づけられた人々のお正月は、もう少しマシだったのではと思う。
去年は弱者が“自己責任”という言葉で黙らされた。本当は政治家や経済界のトップこそが“社会的責任”を全うしなければならなかったのではないかと思う。
日本経済新聞の特集のように、今年こそは、国のトップに立つ人々は、私達に夢と安心を示して欲しい。