福井晴敏氏の小説は好きだ。初めて読んだ「トウェルブY.O.」を読んだ時、何と面白いのだろうと思った。それから、彼の本を読み漁った。ハード本で売り出されても、文庫になるのを待って買い、通勤の電車の中は彼の世界だった。
娘も本は良く読む。私が買う文庫本はほとんど読む。でも、彼の小説は読まない。多分、彼の文章の書き方が独特だからだろう。慣れないとスッと入って行けないかもしれない。それに、彼の世界観というか「国のあり方」のこだわりも娘には苦手なのかもと思う。
でも、私は彼の映像的な文章が好きだ。彼の小説に出てくる、魅力的な登場人物にも感情移入してしまう。特に主人公のガラスのような心を持ちながらも、守るべきものの為に死を厭わずに戦いに向かう若者が好きだ。
この本を読みながら、初期のガンダムのアムロを想像していた。福井氏がガンダム本を書いたのを知っているので。でも、読んだ事無いので、私の知っているガンダムはアムロとシャー。
そして、お台場で実物大のガンダムを見に行って、この本の恐ろしさを実感した。
そう、この本の上、中、下の下巻は諸に、お台場が戦場となりテロにより瓦礫の島になってしまう。もともとの夢の島に。
お台場が沸騰し瓦解していくスペクタルシーンは、私の頭の中のスクリーン一杯に映し出される。お台場の未来都市は、その、都市構造ゆえに、たった5人のテロリストにより、いとも簡単に崩れ去っていく。まるで、超巨大地震に襲われたように。
テロリストが使用した特殊爆弾「TPex」でなくても、普通の強力な爆弾を使用しても、この方法は実行可能なのだろうかと考えてしまう。
9.11を見ても、小説よりも現実の方が先に行っている事もある。人間の想像力は無限大だが、それを実行してしまう種類の人達がいるということに、恐怖と激しい憤りを感ずる。
たった一度しかない人生。生まれてしまったら、ただ、生きとし生きる全ての生命が死を義務付けられているこの世で、その人の持つ寿命を無視した強制的終了は許される事ではない。
どんな主義主張も、他人の死を前提とした根拠は無い。個人の殺人でも、テロでも、戦争でも同じ事だと思う。
この本を読んでいて、時期が「ヒロシマ、ナガサキ」だったので、特にそう思った。「原爆を落とさなければ、もっと多くの人々が戦争で死んだだろう」と語るアメリカの主張は詭弁だと、私は思う。
たとえ、原爆を落とさなかったとしても、戦場は日本、アメリカではない。何十万の死者のほとんどが日本人なのだ。そして、そのほとんどの犠牲者が銃後の人々と言われる、兵隊ではない普通の生活人なのだ。そして、そこで犠牲になるであろうアメリカ人は兵隊である。
戦争という名目の殺人に大義名分は無いと、私は思う。ノモンハンで戦士した私の伯父は、悲しいけど犬死だったのだ。
娘も本は良く読む。私が買う文庫本はほとんど読む。でも、彼の小説は読まない。多分、彼の文章の書き方が独特だからだろう。慣れないとスッと入って行けないかもしれない。それに、彼の世界観というか「国のあり方」のこだわりも娘には苦手なのかもと思う。
でも、私は彼の映像的な文章が好きだ。彼の小説に出てくる、魅力的な登場人物にも感情移入してしまう。特に主人公のガラスのような心を持ちながらも、守るべきものの為に死を厭わずに戦いに向かう若者が好きだ。
この本を読みながら、初期のガンダムのアムロを想像していた。福井氏がガンダム本を書いたのを知っているので。でも、読んだ事無いので、私の知っているガンダムはアムロとシャー。
そして、お台場で実物大のガンダムを見に行って、この本の恐ろしさを実感した。
そう、この本の上、中、下の下巻は諸に、お台場が戦場となりテロにより瓦礫の島になってしまう。もともとの夢の島に。
お台場が沸騰し瓦解していくスペクタルシーンは、私の頭の中のスクリーン一杯に映し出される。お台場の未来都市は、その、都市構造ゆえに、たった5人のテロリストにより、いとも簡単に崩れ去っていく。まるで、超巨大地震に襲われたように。
テロリストが使用した特殊爆弾「TPex」でなくても、普通の強力な爆弾を使用しても、この方法は実行可能なのだろうかと考えてしまう。
9.11を見ても、小説よりも現実の方が先に行っている事もある。人間の想像力は無限大だが、それを実行してしまう種類の人達がいるということに、恐怖と激しい憤りを感ずる。
たった一度しかない人生。生まれてしまったら、ただ、生きとし生きる全ての生命が死を義務付けられているこの世で、その人の持つ寿命を無視した強制的終了は許される事ではない。
どんな主義主張も、他人の死を前提とした根拠は無い。個人の殺人でも、テロでも、戦争でも同じ事だと思う。
この本を読んでいて、時期が「ヒロシマ、ナガサキ」だったので、特にそう思った。「原爆を落とさなければ、もっと多くの人々が戦争で死んだだろう」と語るアメリカの主張は詭弁だと、私は思う。
たとえ、原爆を落とさなかったとしても、戦場は日本、アメリカではない。何十万の死者のほとんどが日本人なのだ。そして、そのほとんどの犠牲者が銃後の人々と言われる、兵隊ではない普通の生活人なのだ。そして、そこで犠牲になるであろうアメリカ人は兵隊である。
戦争という名目の殺人に大義名分は無いと、私は思う。ノモンハンで戦士した私の伯父は、悲しいけど犬死だったのだ。