今日の午後は、畑へ行く日。でも、午後から雨が降るという。
朝、起きた時から、何か調子がいい。身体が軽い。
昨日まで、夏バテか身体が重かった。
月曜日の午前中は、近くのお家の家事援助に行っている。
ご夫婦だけの家で、二人とも、非常に忙しい。朝行くと、旦那さんはもう出かけてていない。だから会った事がない。
奥さんは、私が行くとパソコンで仕事をしている。時々、徹夜したといいながら。そして、しばらくして出かけて行く。
でも、時々は、話しをする。いろんな話しをした。サッカーの事、南ちゃんの事、夫の事…。
昨日、「おはようございます」 と入って行ったら、
「おはようございます。FC東京、勝ちましたね。6位ですね。楽しかったですか?」 と。
「ありがとうございます。とっても楽しいでした。」
奥さんは、サッカーの事は全然興味無くて、アントラーズとベルディしか知らなかった。
アントラーズは招待されて鹿島まで行ったが、霧で全然見えなかった、と笑っていた。
ベルディは地元だし、以前、地元で北沢豪氏の講演会を聞きに行き、とっても話しが上手く感心したそうだ。
奥さんとFC東京の話しをしたので、ちょっと元気になり仕事をしたが、やっぱり、何となくだるくて午後はゴロゴロしていた。
ところが、今日は朝から元気に目覚めた。
そして、どうしても、山に入りたくなった。
午後から雨だから、曇っていてそんなに暑くないから、午前中に行く事にした。
いつもの、しんどい坂道も、軽く登る。
誰も、来ないだろうとは思ったが、取りあえず “一の森にいます” の札をぶら下げる。
一の森。
綺麗に下草刈りしても、すぐに笹が生えて来る。でも、刈った後に出て来る笹は、刈りやすい。
林の中は、日陰で、セミの声と小鳥達の鳴き声しか聞こえない。
一人で作業していると、感情が心の奥深くに沈んで行く。そして、いろんな想いが、忘れていたような思いが、柔らかく浮かび上がって来る。
亡くなった夫や姉や父の事。夫の転勤に引っ越しを繰り返した、その時々の思い出。子供達が小さかった時の事。
物心付いた時から、私達と姉妹のように育った従姉の旦那さんが、今、癌で、いよいよ寝たきりになった。彼女は、30年も寝たきりのお姑さんを見送り、今度は旦那さんをその日まで家で看取るという。「私って、そういう運命ね」 と電話口で明るく言う彼女。
彼女を思い、2度も病院に泊まり込みで看病した姉を想い、2ヶ月病院に通い夫を見送った日々を想い、胸が一杯になり、首に巻いたタオルで汗と一緒に目頭を拭く。
自然の中にいると、生きるって何だろう、死ぬってどういう事?長い長い地球の歴史の中で、私が生きているこの一瞬の数十年の意味は?…何て、哲学的な気持ちにもなって来る。
TVで、今、若者のネット依存・中毒の人が何十万もいるという。
彼らに、小さな画面の電子風景を離れて、自然の中の風景に寝転んで心を開放して思考の海に漂って欲しいなと、切に思う。
心の中に積み重なった諸々の濁りを、木々のささやきか浄化してくれるような気がする。そして、ちょっとだけ、若返ったような軽やかな気持ちで山を後にする。
近くの林の持ち主が、藪に覆われていた林を綺麗にした。仲間が曰く、「何か、人を頼んで綺麗にしたみたいよ」 と。
確かに、綺麗だ。笹を刈った後が、掃いたように土が出て綺麗になっている。見た目、とっても綺麗。
私達の一の森は、笹は刈ったが、落ち葉や枯れ枝が一杯。歩くと、サクサク、パキポキと音がする。
山に降り積もった落ち葉が大事なんだそうだ。降った雨が、この落ち葉の中に沁みとおり、土に沁みとおり、地下水になり、いつの日か海へと流れて行く。その水には、海に住む生き物の為の豊富な栄養素が沢山含まれているのだと言う。
だから、「山は海の恋人」 と言うのだとTVの番組で言っていた。
南山の落ち葉の地下水が、“稲城の梨” を美味しくしてくれているのだろう。
次の畑の日も、山に入ろうかな。
南山には、チョウチョウが沢山いる。でも、なかなか写真に撮れない。どんなに静かに近づいても、直ぐに逃げてしまう。
朝、起きた時から、何か調子がいい。身体が軽い。
昨日まで、夏バテか身体が重かった。
月曜日の午前中は、近くのお家の家事援助に行っている。
ご夫婦だけの家で、二人とも、非常に忙しい。朝行くと、旦那さんはもう出かけてていない。だから会った事がない。
奥さんは、私が行くとパソコンで仕事をしている。時々、徹夜したといいながら。そして、しばらくして出かけて行く。
でも、時々は、話しをする。いろんな話しをした。サッカーの事、南ちゃんの事、夫の事…。
昨日、「おはようございます」 と入って行ったら、
「おはようございます。FC東京、勝ちましたね。6位ですね。楽しかったですか?」 と。
「ありがとうございます。とっても楽しいでした。」
奥さんは、サッカーの事は全然興味無くて、アントラーズとベルディしか知らなかった。
アントラーズは招待されて鹿島まで行ったが、霧で全然見えなかった、と笑っていた。
ベルディは地元だし、以前、地元で北沢豪氏の講演会を聞きに行き、とっても話しが上手く感心したそうだ。
奥さんとFC東京の話しをしたので、ちょっと元気になり仕事をしたが、やっぱり、何となくだるくて午後はゴロゴロしていた。
ところが、今日は朝から元気に目覚めた。
そして、どうしても、山に入りたくなった。
午後から雨だから、曇っていてそんなに暑くないから、午前中に行く事にした。
いつもの、しんどい坂道も、軽く登る。
誰も、来ないだろうとは思ったが、取りあえず “一の森にいます” の札をぶら下げる。
一の森。
綺麗に下草刈りしても、すぐに笹が生えて来る。でも、刈った後に出て来る笹は、刈りやすい。
林の中は、日陰で、セミの声と小鳥達の鳴き声しか聞こえない。
一人で作業していると、感情が心の奥深くに沈んで行く。そして、いろんな想いが、忘れていたような思いが、柔らかく浮かび上がって来る。
亡くなった夫や姉や父の事。夫の転勤に引っ越しを繰り返した、その時々の思い出。子供達が小さかった時の事。
物心付いた時から、私達と姉妹のように育った従姉の旦那さんが、今、癌で、いよいよ寝たきりになった。彼女は、30年も寝たきりのお姑さんを見送り、今度は旦那さんをその日まで家で看取るという。「私って、そういう運命ね」 と電話口で明るく言う彼女。
彼女を思い、2度も病院に泊まり込みで看病した姉を想い、2ヶ月病院に通い夫を見送った日々を想い、胸が一杯になり、首に巻いたタオルで汗と一緒に目頭を拭く。
自然の中にいると、生きるって何だろう、死ぬってどういう事?長い長い地球の歴史の中で、私が生きているこの一瞬の数十年の意味は?…何て、哲学的な気持ちにもなって来る。
TVで、今、若者のネット依存・中毒の人が何十万もいるという。
彼らに、小さな画面の電子風景を離れて、自然の中の風景に寝転んで心を開放して思考の海に漂って欲しいなと、切に思う。
心の中に積み重なった諸々の濁りを、木々のささやきか浄化してくれるような気がする。そして、ちょっとだけ、若返ったような軽やかな気持ちで山を後にする。
近くの林の持ち主が、藪に覆われていた林を綺麗にした。仲間が曰く、「何か、人を頼んで綺麗にしたみたいよ」 と。
確かに、綺麗だ。笹を刈った後が、掃いたように土が出て綺麗になっている。見た目、とっても綺麗。
私達の一の森は、笹は刈ったが、落ち葉や枯れ枝が一杯。歩くと、サクサク、パキポキと音がする。
山に降り積もった落ち葉が大事なんだそうだ。降った雨が、この落ち葉の中に沁みとおり、土に沁みとおり、地下水になり、いつの日か海へと流れて行く。その水には、海に住む生き物の為の豊富な栄養素が沢山含まれているのだと言う。
だから、「山は海の恋人」 と言うのだとTVの番組で言っていた。
南山の落ち葉の地下水が、“稲城の梨” を美味しくしてくれているのだろう。
次の畑の日も、山に入ろうかな。
南山には、チョウチョウが沢山いる。でも、なかなか写真に撮れない。どんなに静かに近づいても、直ぐに逃げてしまう。