何十回もの8月15日を迎えたが、今日の8月15日を特別な思い出迎えている。
母が今年の1月に亡くなり、鬼籍に入った事が大きい。
やっと、両親や姉達、最愛の兄や夫と再会出来たのだから。そして、長女と私の夫とも。
母だけではないけれど、戦争に振り回され苦労に苦労を重ねた母。
母の姉達の父親は戦死し、母の母は随分と年の離れた夫の弟と結婚させられたという。それまで、女の子しか生まれなかったので、農家の跡取りとしての男子をどうしても産まなければならなかったのだ。
そして、やっと跡取りの男子が生まれ、もう高齢になっていた母から、思いがけずに望まれない状態で私の母が生まれたと言う。うらなりの女の子といわれたそうだ、可哀想に。
今度は、その大事な跡取りの兄が、町役場の不手際で赤紙が来て、あのノモンハンで戦死した。
姉達は皆結婚していて、まだ独身だった母は(母にはお嫁に行きたいとひそかに思っていた人がいたそうだ)婿を取らされた。
そして、姉が生まれたが、姉の父は姉が幼い頃に病死する。
母と、年老いた私の祖母と病弱の祖父と、農家をやるのは、辛い事だったそうだ。今のように機械の無いあの頃の農作業の労働は本当に過酷だった事だろう。
それがたたったのだろう、私が物心付いた頃には、病弱の祖父は病死していた。
そして、家の為に母は、中国戦線から復員してきた私の父と結婚した。2代続けての、家の為の再婚である。
昭和23年に私が生まれたが、その前後、農家なのに食べる物に困り、私は、未熟に生まれ、生まれた後も、栄養不良の母の母乳が出ず、何とかお米を調達して(農家なのに)粉にしてミルク代わりに私に飲ませていたという。
一つ違いの妹は、もう、食料も豊富になり、たっぷりの母乳で育った。
極端に小さく痩せていた私は、直ぐにお腹をこわしたり病気になり、村の医者から育つかどうかと言われたらしい。
でも、やせっぽちだったが、小学校入学した頃から、ありがたい事に、これまで病気とは無縁の人生を送っている。
私は小さいころから、母から戦死した兄の事を何回も何回も聞かされた育った。
戦争に行く時に、両親に別れを言うよりも、母に、ただひたすら母に、「フジ、後を頼む。達者でな」 と汽車に乗っていつまでも手を振っていたと。
老人ホームに入って、いろいろな過去の思い出がまだらになっても、母は、自分の夫よりも亡くなった兄の事を恋しがっていた。
まだ、元気だった母が、東京に住む私に、「靖国神社に行きたい。兄に会いたい」 と言ったので、夫と子供達と一緒に行った事がある。
参拝客もまばらな、穏やかの日。
母はいつまでもいつまでも手を合わせ祈っていた。
私達は、そんな母を目の隅にとどめて、境内を散策した。そこで、神社の木々から種が落ち、芽を出した小さな樹木の鉢植えを売っていた。知らない名前の 「モッコク」 という鉢植え記念に買った。今も、なぜか大きくならないが元気だ。
母は、長い御祈りを終わり、私達の所に来て言った。
「兄は、ここにはいない。もう、来る事はないよ。さあ行こう」 と。
今でも、あの時の、さばさばした母の顔が忘れられない。
あの世で懐かしい人々に会った母は、きっと、昔の元気な頃の母のように、仕切っているだろうな。
いつかは、私も、その仲間入りする日が来るだろう、いつかは分からないが。
そして、私の中での “戦後” が、やっと終わったように思う。
母が今年の1月に亡くなり、鬼籍に入った事が大きい。
やっと、両親や姉達、最愛の兄や夫と再会出来たのだから。そして、長女と私の夫とも。
母だけではないけれど、戦争に振り回され苦労に苦労を重ねた母。
母の姉達の父親は戦死し、母の母は随分と年の離れた夫の弟と結婚させられたという。それまで、女の子しか生まれなかったので、農家の跡取りとしての男子をどうしても産まなければならなかったのだ。
そして、やっと跡取りの男子が生まれ、もう高齢になっていた母から、思いがけずに望まれない状態で私の母が生まれたと言う。うらなりの女の子といわれたそうだ、可哀想に。
今度は、その大事な跡取りの兄が、町役場の不手際で赤紙が来て、あのノモンハンで戦死した。
姉達は皆結婚していて、まだ独身だった母は(母にはお嫁に行きたいとひそかに思っていた人がいたそうだ)婿を取らされた。
そして、姉が生まれたが、姉の父は姉が幼い頃に病死する。
母と、年老いた私の祖母と病弱の祖父と、農家をやるのは、辛い事だったそうだ。今のように機械の無いあの頃の農作業の労働は本当に過酷だった事だろう。
それがたたったのだろう、私が物心付いた頃には、病弱の祖父は病死していた。
そして、家の為に母は、中国戦線から復員してきた私の父と結婚した。2代続けての、家の為の再婚である。
昭和23年に私が生まれたが、その前後、農家なのに食べる物に困り、私は、未熟に生まれ、生まれた後も、栄養不良の母の母乳が出ず、何とかお米を調達して(農家なのに)粉にしてミルク代わりに私に飲ませていたという。
一つ違いの妹は、もう、食料も豊富になり、たっぷりの母乳で育った。
極端に小さく痩せていた私は、直ぐにお腹をこわしたり病気になり、村の医者から育つかどうかと言われたらしい。
でも、やせっぽちだったが、小学校入学した頃から、ありがたい事に、これまで病気とは無縁の人生を送っている。
私は小さいころから、母から戦死した兄の事を何回も何回も聞かされた育った。
戦争に行く時に、両親に別れを言うよりも、母に、ただひたすら母に、「フジ、後を頼む。達者でな」 と汽車に乗っていつまでも手を振っていたと。
老人ホームに入って、いろいろな過去の思い出がまだらになっても、母は、自分の夫よりも亡くなった兄の事を恋しがっていた。
まだ、元気だった母が、東京に住む私に、「靖国神社に行きたい。兄に会いたい」 と言ったので、夫と子供達と一緒に行った事がある。
参拝客もまばらな、穏やかの日。
母はいつまでもいつまでも手を合わせ祈っていた。
私達は、そんな母を目の隅にとどめて、境内を散策した。そこで、神社の木々から種が落ち、芽を出した小さな樹木の鉢植えを売っていた。知らない名前の 「モッコク」 という鉢植え記念に買った。今も、なぜか大きくならないが元気だ。
母は、長い御祈りを終わり、私達の所に来て言った。
「兄は、ここにはいない。もう、来る事はないよ。さあ行こう」 と。
今でも、あの時の、さばさばした母の顔が忘れられない。
あの世で懐かしい人々に会った母は、きっと、昔の元気な頃の母のように、仕切っているだろうな。
いつかは、私も、その仲間入りする日が来るだろう、いつかは分からないが。
そして、私の中での “戦後” が、やっと終わったように思う。