本屋さんで、「鬼滅の刃夜話」を見て買ってきた。
作者が植朗子さんなので、期待を持って読んだ
鬼滅隊や鬼たち一人一人を掘り下げて書かれている。
夢中でストーリーを追うだけのように読み進めた私には、読み落としていた所も記憶に残っていない所もある。
あらためて、そうかそうだったのかと思い出し、そのたびにマンガ本を手に取った。
読みながら、テレビで流れたアニメや、劇場版のアニメのシーンが、鮮やかに蘇る。
まだアニメにはなっていなくても、自分の頭の中では、私なりのアニメが流れている。
作者が書いていたが、全てに矛盾が感じられず、最初にあれッと思った事象も、後でちゃんと回収されている、と。
そして読み終わって、まるで実際にあった歴史の解説本を読んでいるように感じた。
NHKの戦国時代や江戸時代、平家や源氏物語の、それぞれに出て来る人物たちの、その人物像や生い立ちや生き様などの諸々の解説本を読んでいるようだった。
23巻の漫画本を、これだけ読み込んで書いた植さんに感動するとともに、もう一度読み返してみようかなと思った。
遊郭編の最終話が、この日曜日に放送される。
第10話「絶対諦めない」は、凄かった。
もう、息するのも忘れるくらいに。終わった後、心臓がドキドキしていた。
娘が、録画をご飯食べながら見たので、娘が寝てから電気を消してもう一度観た、と言っていた。
私も、電気を消してもう一度、観た。娘の家のように大きな画面だったらもっと迫力があっただろうなと、想いながら。
今、思い出してもドキドキする。
また、初期の頃、このマンガが批判されていた事があったと、初めて知った。
年端もいかない子供たちが、あまりにもたくさん亡くなっているからだ。そして、それを特攻隊の美化のように受け止める人もいたのだと。何でそういうふうに結び付けるのか理解できない。
これは少年マンガである。大人のマンガではないのだから、少年少女たちが主人公になるのは当たり前だし、そういうマンガはいっぱいある。
今と違って、平均寿命の短かった昔は、貧しい家の子は14,5才なら、立派に働いていた。炭治郎だって一家の大黒柱として炭を売っていたではないか。
戦後、貧しかったあの頃、私が小学生だったころ、朝、新聞配達をしてから学校に来ていた男の子もいた。
こういう物語は、彼ら彼女らが若いからこそ、観ている読んでいるこっちも感動し涙するのだ。
テレビアニメの遊郭編を非難する人達がいた。子供に見せるのかと。
これは大人のマンガではなく、少年マンガなのに。
私は遊郭編に感動している。早く次が見たい。でも、終わってしまうのが寂しい。
いつか、遊郭編を編集して劇場で上映してほしい。あの大きなスクリーンで素晴らしい音響の元で観たい。
そして、最初のアニメから、劇場編で、遊郭編で、全てを通して、歌が素晴らしい。
10話のエンディングの、まるで劇場アニメの終わりのような、絵と音楽に心が震えた。
鱗滝は、戦いに苦しむ竈門兄弟を心の中でずっと励まし続けた。負けるな炭治郎、負けるな禰豆子、絶対に負けるな、と。
「勝て」、ではなく「負けるな」と。
普通は絶対に勝てと言うけど、負けるなという鱗滝さん。
勝て、勝つだとピリオドを思うが、負けるなというと、何か未来があるような気がする。
励まし方でも、言葉ひとつで随分違うんだなと思った。
植さんが、炭治郎を含めて、異能の持ち主と書いているが、私には、これだけの物語を紡いだ吾峠呼世晴先生の方が、異能の持ち主に思える。
今度は、じっくりともう一度、鬼滅のマンガを読んでみようかなと思う。
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