現在の静岡市清水区で昭和41年(1966年)6月起きた放火殺人事件で死刑を宣告された袴田巌さん(78)が48年ぶりに誤審とされ刑務所から釈放された。48年といえば約半世紀の長い歳月である。この間、弟の無実を信じ、最高裁でいったん死刑が確定された後も再審を訴え続けきた姉の秀子さんの姉弟愛には本当に胸を打たれる。
馬齢を重ねると、過ぎ去った歳月の中には、その年何があったのか判らなくなってくる。しかし、個人的なことだが、僕にとって昭和41年は忘れられない年だ。勤めていた新聞社から初めて常駐の海外特派員としてインドネシアのジャカルタに赴任した。赴任直前の2月には全日空の羽田沖墜落事故が起きさらに3月にはBOAC機が富士山麓で空中分解する航空事故が多発した。ビートルズが初来日して日本中が沸いたのも、この事件のあった6月であった。
48年は長い歳月だ。わが家ではまだ明治17年と26年生まれの父母が健在だった。次女が生まれたのは40年だが、すでにその次女の子供は今年大学を卒業した。この48年間に僕は3回も転職、年金生活になってからでも20年になる。
釈放された袴田巌さんをテレビの画面で見たが、78歳という年齢にしては老いている感じを受けた。そうだろう。死に向き合いながら刑務所の中で半世紀もの拘禁生活を強いられてきたのだ。僕は自分の過去48年のを振り返り、袴田さんに心から同情し、こんなことが二度とあってはならないと願、一日も早い袴田さんの社会復帰を祈る次第である。
馬齢を重ねると、過ぎ去った歳月の中には、その年何があったのか判らなくなってくる。しかし、個人的なことだが、僕にとって昭和41年は忘れられない年だ。勤めていた新聞社から初めて常駐の海外特派員としてインドネシアのジャカルタに赴任した。赴任直前の2月には全日空の羽田沖墜落事故が起きさらに3月にはBOAC機が富士山麓で空中分解する航空事故が多発した。ビートルズが初来日して日本中が沸いたのも、この事件のあった6月であった。
48年は長い歳月だ。わが家ではまだ明治17年と26年生まれの父母が健在だった。次女が生まれたのは40年だが、すでにその次女の子供は今年大学を卒業した。この48年間に僕は3回も転職、年金生活になってからでも20年になる。
釈放された袴田巌さんをテレビの画面で見たが、78歳という年齢にしては老いている感じを受けた。そうだろう。死に向き合いながら刑務所の中で半世紀もの拘禁生活を強いられてきたのだ。僕は自分の過去48年のを振り返り、袴田さんに心から同情し、こんなことが二度とあってはならないと願、一日も早い袴田さんの社会復帰を祈る次第である。
今と違って科学捜査も乏しい時代ですから、冤罪もあるのかもしれません。
昭和30年から40年代は、目まぐるしく前に進んだ時代ですね。
”人生いろいろ”といいますが、、これ以上過酷な人生はありませんね。事件の被害者一家で、難を免れた長女の方が、袴田さんが釈放された日に病死されたとのこと。
なにか運命を感じます。