戦争末期の昭和19年、東京の荏原区(現在の品川区)にあった私立戸越保育所の幼児53人が家族から離れ埼玉県南埼玉郡平野村(現.蓮田市)の妙楽寺という無人のお寺へ集団疎開している。その実録「君たちは忘れない疎開保育園幼児」(久保つきこ著 草土文化 1982)が映画化され「あの日のオルガン」(平松美恵子監督)というタイトルで、今、全国の映画館で上映され評判になっている。この映画を早やくもみた長年、保育園長を勤めた友人から”感激しました”とメールを頂戴した。
戦争末期、東京、大阪なの大都会では空襲を避けて学校ごとに集団疎開した。この体験者は多く、記録も残されいるが、保育園児の集団疎開は知らなかった。戦前、都会では常設の「保育所」はなく、農村部の繁忙期の季節的なものだと思っていた。それだけに、戦争のあの時期に戸越保育所があったことが驚きであり、しかも集団疎開までしていたのだ。
戸越は僕が生れて子供時代を送った五反田の隣町で、亡母は明治時代、”とごえ”と呼ばれた戸越の裁縫女学校を出ている。僕自身にも幼な馴染みの友人が多い。その「戸越」の名前の好奇心からインターネットで調べてみたら、戸越保育所は、戦争中の昭和14年、当時、東京帝国大学の学生だった大村英之介氏(父親は満鉄総裁の卓一氏)が社会運動の一つとして創立した。戦争が激しくなっていく中で、都会では夫が戦地に赴き、幼児を抱えて働かなくてはならない女性もいたのであろう。
昨日夕方のNHKテレビの東京ロ―カル.ニュースでも「あの日のオルガン」を扱っていた。幼児まで戦争に巻き込んだあの過酷な時代を3月10日の東京大空襲74年目の記念日を前に想い出した。"ノ―.モア.ウオ―”である。
保育園自体、絶対数は少ないと思いますが、こうした知らない歴史がまだまだあるのですね。
たしかに、歴史の表面には出ない話があるものですね。あの時代、出征兵士を出した家には「出征兵士の家」と看板が出され、隣近所で助けあったものです。しかし、都会では働き者を失い、幼子をかかえた女性中には、食べてゆくうえで、子供を預けて働きたい人もいたのですね。創立者の学生は社会運動の一環として始めたようです。社会運動は当時”アカ”とされていました。満鉄総裁の息だけに黙認されたのでしょうか疎開しなければ大空襲で犠牲になっていたかもしれません。勇気ある行動でした。