東京もここ数日気温が下がり、すっかり秋らしくなった。朝晩は肌寒ささえ感じる。ひと月前のお彼岸の頃は、このまま夏の暑さが続くのではないかと心配したほどだったが、やはり季節はきちんと移り変わってゆくものだ。つい、この間まで青かった近所の家の柿の実も一気に赤みを増してきた。
僕ら夫婦が結婚した昭和30年代の初め頃、青木光一の「柿の木坂の家」の歌が大ヒットしていた。”秋には柿の花が咲き、秋には柿の実が熟れる”という歌だ。この歌は広島県出身の作詞家、石本美由起が故郷の廿日市から旧佐伯町に通じる汐見坂の光景を歌ったものだが、僕らの住んでいる町が東京の柿の木坂(目黒)だったため、よく間違えられた。
しかし歌にある「柿の木坂の家」は駅まで三里あり、半世紀前でも東京の柿の木坂は駅から数百m、住宅地として開発されていた。でも今のように高層なマンションはなかった。わが家にも狭いながらも庭があり、亡母が植えた柿の木が渋柿ながら赤い実をつけていた。この50年の変化で、わが家だけでなく近所の家もみな建て替えられた。そして庭が削られ柿の木も切られてしまった。
町の名前の由来でもある柿の木は、ほとんどなくなり、あっても写真のように家にへばりつくように植えられている。甘柿なのか渋柿なのかもわからない。昔のように柿を盗んで食べる子どもたちの姿もなくなった。柿を食べてもお寺の鐘も聞こえてこない。
僕ら夫婦が結婚した昭和30年代の初め頃、青木光一の「柿の木坂の家」の歌が大ヒットしていた。”秋には柿の花が咲き、秋には柿の実が熟れる”という歌だ。この歌は広島県出身の作詞家、石本美由起が故郷の廿日市から旧佐伯町に通じる汐見坂の光景を歌ったものだが、僕らの住んでいる町が東京の柿の木坂(目黒)だったため、よく間違えられた。
しかし歌にある「柿の木坂の家」は駅まで三里あり、半世紀前でも東京の柿の木坂は駅から数百m、住宅地として開発されていた。でも今のように高層なマンションはなかった。わが家にも狭いながらも庭があり、亡母が植えた柿の木が渋柿ながら赤い実をつけていた。この50年の変化で、わが家だけでなく近所の家もみな建て替えられた。そして庭が削られ柿の木も切られてしまった。
町の名前の由来でもある柿の木は、ほとんどなくなり、あっても写真のように家にへばりつくように植えられている。甘柿なのか渋柿なのかもわからない。昔のように柿を盗んで食べる子どもたちの姿もなくなった。柿を食べてもお寺の鐘も聞こえてこない。
時代の推移で仕方がないのですが寂しいことです。昭和10年代僕が住んでいた目黒川沿いの五反田の低地には昔の農家の家が残っており、屋敷林までありました。柿、枇杷、ザクロ、イチジクの木があり、チャボが放し飼いまでされていました。自然と人々の気持ちもゆったりしていました。近所争いなどなかった気がしますが。