戦争中、学徒動員で一緒に軍需工場で働いた友人が突然亡くなった。彼とは昭和20年5月、中学3年1学期まで同じクラスだったが、空襲で彼の家が焼け、福島に疎開したため実質2年ちょっとの級友にすぎない。しかし、戦後も交際は続き、一緒にインドへ観光旅行へ行き、同じ象の背中に乗ったり、アムステルダムの美術館でレンブラントの「自画像」や「夜警」の絵を鑑賞した仲だ。
僕らは戦争を挟んで苦労した世代だ。昭和18年、入学した時には180人いた学友も戦争で、疎開したり空襲で家が焼け、戦後学校が再開したときは学友の数は百人、つまり1クラスがなくなっていた。彼も戦後すぐ東京に戻りたかったのだが、焼野原になった東京では当時、人口流入を防ぐ措置をとっていた。結局、彼が帰京できたの、地元の中学を終えた23年3月であった。兄弟の多い彼は家庭の事情から働きながら夜間の大学に通った。
現役時代はお互いに忙しく会う機会も少なかった。交流が深くなったのは仕事を辞めた60歳代後半からであった。他の友人と年に何回かは国内旅行に出かけたが、話は僅か1年足らずの勤労動員中の苦労であった。しかし、この旅行会も80歳を越えてから自然消滅してしまった。仲間の誰かが体調をこわしたり、足腰が悪く旅行が出来なくなってしまった。ご遺族からお通夜と告別式の通知を頂いたが、斗酒なお辞せずの仲間の生前の話を肴にしてお通夜を賑やかに盛り立てようと思ったが、皆、夜間の外出を医者から禁止されている。
超高齢化時代、亡くなった友人は多芸の人で、観世流をたしなみ囲碁は三段、菊の栽培も玄人で、十分余生を楽しんできた。それでも83歳ではまだ早い気がする。しかし、認知症で家族に迷惑をかけないよりは、と仲間内で話もあるがー。
僕らは戦争を挟んで苦労した世代だ。昭和18年、入学した時には180人いた学友も戦争で、疎開したり空襲で家が焼け、戦後学校が再開したときは学友の数は百人、つまり1クラスがなくなっていた。彼も戦後すぐ東京に戻りたかったのだが、焼野原になった東京では当時、人口流入を防ぐ措置をとっていた。結局、彼が帰京できたの、地元の中学を終えた23年3月であった。兄弟の多い彼は家庭の事情から働きながら夜間の大学に通った。
現役時代はお互いに忙しく会う機会も少なかった。交流が深くなったのは仕事を辞めた60歳代後半からであった。他の友人と年に何回かは国内旅行に出かけたが、話は僅か1年足らずの勤労動員中の苦労であった。しかし、この旅行会も80歳を越えてから自然消滅してしまった。仲間の誰かが体調をこわしたり、足腰が悪く旅行が出来なくなってしまった。ご遺族からお通夜と告別式の通知を頂いたが、斗酒なお辞せずの仲間の生前の話を肴にしてお通夜を賑やかに盛り立てようと思ったが、皆、夜間の外出を医者から禁止されている。
超高齢化時代、亡くなった友人は多芸の人で、観世流をたしなみ囲碁は三段、菊の栽培も玄人で、十分余生を楽しんできた。それでも83歳ではまだ早い気がする。しかし、認知症で家族に迷惑をかけないよりは、と仲間内で話もあるがー。
人の終わりに幾つなら良いという括りはありませんが、ご友人は大変な時代を経験され、ご苦労もされた事とは思いますが、人生を謳歌して旅立たれたのは間違いありません。
どうぞお力を落としませんように。
ご友人のご冥福をお祈りします。
3年前奥さんに先立たれてから、彼は元気がなくなりました。ご夫婦でアルプス登山をしたのが自慢でした。男は連れだった相手が先に亡くなるとダメです。せいぜい女房孝行しなければと思っています。