テレビの番組で新潟県十日町の古くから伝わる壮大な「どんと焼き」の風景をみた。
「どんと焼き」は一般には小正月(1月15日)に飾ってあった正月のお供えや門松を
神社に持参しお焚きして貰う行事である。所によっては「左義長」とか「とり正月」と
呼び名が違う。東京では江戸時代「どんと焼き」が火元で大火になったことがあり、
鳥越神社以外あまり盛んには行われていない。
わが家では、毎年小正月には小さな松飾りを近くの神社へ持参し、お賽銭をあげて
お焚きして貰うが、年によっては忘れることがあり、その時には庭の隅で乾かしてか
らたい肥として使う。しかし、最近都会では庭のある家が少なく、一般ゴミとして出し
ている家が多い。古い感覚ではバチ当たりだが、今は仕方がない。
戦前、子どもだった頃、僕は「どんと焼き」と「どんどん焼き」とがごっちゃになっていた。
「どんどん焼き」とは、大正から昭和の10年代、東京の下町の駄菓子屋で子ども相手に
あったお好み焼きである。池波正太郎の「食卓の風景」の中にも”「どんどん焼き」は下
町の人間にとってこれほど郷愁をそそるものはない”と紹介されている。
戦前、東京の下町の駄菓子屋には店の隅に鉄板焼を置いたコーナーがあり、こどもたち
はここで「どんどん焼き」を食べながら遊んでいた。一銭かニ銭を払うと、おばさんがアルミ
の容器に練った小麦粉に注文の具をいれて運んできた。これを自分で焼くのが楽しみだ
った。具は赤い干しエビとかイカのげそ、時には甘いアンもあった。
戦争から戦後の食糧難で、今では東京の町から「どんどん焼き」は姿を消し、その名
前さえ知らない人が多くなった。第一、駄菓子屋がなくなった。東京では「もんじゃ焼き」が
今や有名だが、池波正太郎の本には出てこないし、僕も戦前名前もきいたことがない。した
がって郷愁もない。
「どんと焼き」は一般には小正月(1月15日)に飾ってあった正月のお供えや門松を
神社に持参しお焚きして貰う行事である。所によっては「左義長」とか「とり正月」と
呼び名が違う。東京では江戸時代「どんと焼き」が火元で大火になったことがあり、
鳥越神社以外あまり盛んには行われていない。
わが家では、毎年小正月には小さな松飾りを近くの神社へ持参し、お賽銭をあげて
お焚きして貰うが、年によっては忘れることがあり、その時には庭の隅で乾かしてか
らたい肥として使う。しかし、最近都会では庭のある家が少なく、一般ゴミとして出し
ている家が多い。古い感覚ではバチ当たりだが、今は仕方がない。
戦前、子どもだった頃、僕は「どんと焼き」と「どんどん焼き」とがごっちゃになっていた。
「どんどん焼き」とは、大正から昭和の10年代、東京の下町の駄菓子屋で子ども相手に
あったお好み焼きである。池波正太郎の「食卓の風景」の中にも”「どんどん焼き」は下
町の人間にとってこれほど郷愁をそそるものはない”と紹介されている。
戦前、東京の下町の駄菓子屋には店の隅に鉄板焼を置いたコーナーがあり、こどもたち
はここで「どんどん焼き」を食べながら遊んでいた。一銭かニ銭を払うと、おばさんがアルミ
の容器に練った小麦粉に注文の具をいれて運んできた。これを自分で焼くのが楽しみだ
った。具は赤い干しエビとかイカのげそ、時には甘いアンもあった。
戦争から戦後の食糧難で、今では東京の町から「どんどん焼き」は姿を消し、その名
前さえ知らない人が多くなった。第一、駄菓子屋がなくなった。東京では「もんじゃ焼き」が
今や有名だが、池波正太郎の本には出てこないし、僕も戦前名前もきいたことがない。した
がって郷愁もない。
下町の駄菓子屋では、今もお好み焼き紛いの食べ物を売る店もあるそうです。呼び名は地域で違うようですが。初めてもんじゃ焼きを食べた時は驚きました。見た目のグロテスクさと、値段の高さです。下町の味も高級です。しかしあれがなぜ美味しいと言われているのか、いまだに理解出来ません。
少年時代の友人に聞きましたが、もんじゃ焼については誰も知らなかったです。調べたわけではありませんが、月島か深川だけのお好み焼きの呼び名ではないかと思います。多分、池波正太郎も食べなったのでは!所詮、庶民の食べ物。きどって高いおカネを払って食べるものではないと思います。