天皇.皇后両陛下が8,9の2日間、パラオ共和国を公式訪問し、先の大戦の激戦地、ぺリリユー島での戦没者慰霊祭にも参加される。ぺリリユー島では昭和19年9月から11月までの70日余、上陸してきた米国軍と島を守備していた第14師団歩兵第2連隊ほかの部隊との間で激しい戦闘が展開され、約1万人の日本軍兵士が玉砕戦死した。僕は両陛下とほぼ同じ世代だが、恥ずかしながら最近まで、ぺリリュー島の名前を知らず、この玉砕も知らなかった。
両陛下の慰霊の旅を知り、改めて家にあった「ニューギニア戦線に消えた 悲運薄命の南洋第6支隊」(家永尚喜著 平成10年 星雲社)を読み直してみたら、この部隊は第14師団が玉砕する前の同じ年の4月までぺリリュー島に駐屯、兵要地誌の調査に当たっていた、その後、ニューギニアに転進したが、ぺリリユー島で全部隊が全滅する前に、家永氏が属していた南洋第6支隊は、飢餓と病気でほとんどの兵士が亡くなっている。
戦争に従軍した兵士の間では「軍隊」は「運隊」だと自嘲的に言われていたそうである。家永氏の本の中に、ぺリリユー島の第2歩兵連隊22人と海軍西カロリン航空隊12人が、戦後の昭和22年4月、米軍に投降したという記事があった。この人たちは戦後2年間も島内の洞窟やマングローブの樹上に櫓(やぐら)を建てて生活していたのだという。たんなる戦闘の生存者ではないのである。まさに「軍隊」は「運隊」である。家永氏は”ぺリリユー島に残っていても、ニューギニアに転進しても当時の南太平洋戦線では同じであった。ただ死に場所が違うだけだった、と述懐している。2年間、洞窟の中で苦労され無事帰国できたのも「運隊」なのであろうか。なお、ぺリリユー島の戦闘では202人の日本兵が捕虜になっている。
両陛下の慰霊の旅を知り、改めて家にあった「ニューギニア戦線に消えた 悲運薄命の南洋第6支隊」(家永尚喜著 平成10年 星雲社)を読み直してみたら、この部隊は第14師団が玉砕する前の同じ年の4月までぺリリュー島に駐屯、兵要地誌の調査に当たっていた、その後、ニューギニアに転進したが、ぺリリユー島で全部隊が全滅する前に、家永氏が属していた南洋第6支隊は、飢餓と病気でほとんどの兵士が亡くなっている。
戦争に従軍した兵士の間では「軍隊」は「運隊」だと自嘲的に言われていたそうである。家永氏の本の中に、ぺリリユー島の第2歩兵連隊22人と海軍西カロリン航空隊12人が、戦後の昭和22年4月、米軍に投降したという記事があった。この人たちは戦後2年間も島内の洞窟やマングローブの樹上に櫓(やぐら)を建てて生活していたのだという。たんなる戦闘の生存者ではないのである。まさに「軍隊」は「運隊」である。家永氏は”ぺリリユー島に残っていても、ニューギニアに転進しても当時の南太平洋戦線では同じであった。ただ死に場所が違うだけだった、と述懐している。2年間、洞窟の中で苦労され無事帰国できたのも「運隊」なのであろうか。なお、ぺリリユー島の戦闘では202人の日本兵が捕虜になっている。
親日国ですから大事にするべきです。
ペリリュー島の話は、初めて聞きました。
私達の知らない話が、まだまだあるのだと改めて実感します。
陛下の訪問を切欠に、もっとニューギニアの玉砕を含め、戦争体験が風化しないようにしたいものです。
天皇.皇后両陛下は同世代であり、特に天皇陛下は戦争中の昭和天皇がどういう存在だったかよくご存知だけに戦没者への思いは、僕らの想像以上のものがあります。出来れば最大の犠牲者を出した、ニューギニアやロシアの抑留所へも慰霊の旅に出かけたいお気持ちがあると思います。しかし、今回のパラオでもそうですが、慰霊の旅でも色々な外交上の問題があってすぐ実現でないものようです。しかし、”死んでも帰れない”といわれるニューギニアについては、不断の外交努力を重ねて実現したいものです。
フィリッピンの小野田寛郎氏、グアムの横井庄一氏のようなケースが昭和20年代までは沢山あったのですね。死しても虜囚の辱めにあうなと言われた時代です。あたら大切な生命を失った方や、逆に玉砕の命に従わず生き残った方など、戦争とは不条理なものです