インドネシアの24時間ニューステレビ局「METRO」の東京支局から、日本の様々なニュースを発信しながら「インドネシア文化宮」を主宰しているOさんから久しぶりにメールを頂戴した。Oさんとは、数年前、戦後のホーランディア和蘭裁判で処刑された新穂智陸軍少佐の遺稿「西武ニューギニア横断記」を通じて知りあった。この遺稿は、いま「インドネシア文化宮」のHP(http://grahabudayaindonesia.at.wbby.info/)で紹介されているが、戦後70年のこの時期、ぜひ、ここに新穂少佐の壮絶な一生を再度紹介してみた。
新穂少佐は鹿児島県の出身、満州の陸軍部隊に入隊後選抜されて中野学校に入隊(第一期生)。大東亜戦争直前、バタビア(ジャカルタ)の第二次日蘭通商の随員として派遣され、通商決裂後はそのまま現地に残って同盟通信(共同通信の前身で国営であった)に入社、スマトラのパレンバン行きを命じられ同地で後年の落下傘部隊降下の際の情報収集に当たった。戦争勃発とともに他の在留邦人と共に、オーストラリアの砂漠地帯の収容所に1年抑留された。昭和17年抑留者交換で帰国し中野学校教官に任命されたが、18年再び西部ニューギニアへ「神」機関長として赴任、戦闘に備え、人跡未踏のジャングルを調査した。「西部ニューギニア横断記」は、この時の記録で、裁判の証拠として処刑前に書いたものである。
Oさんは昨年秋、新穂少佐の足跡をたどり、少佐が70余年前踏破したホーランディア(ジャヤプーラ)からサルミまで旅行してきた。そして新穂少佐の処刑地に立ち寄り慰霊の祈りを奉げてきた。Oさんは数年前から西部ニューギニアで英霊の遺骨収集をされているが、近く、また現地へ行き、新穂少佐が踏破した地域を中心に収集に当たる計画だそうだが、国会で審議中の「戦地での遺骨収集法案」は、いったい、どうなっているのだろうか。戦後70年の歳月が流れようとしているのに。
新穂少佐は鹿児島県の出身、満州の陸軍部隊に入隊後選抜されて中野学校に入隊(第一期生)。大東亜戦争直前、バタビア(ジャカルタ)の第二次日蘭通商の随員として派遣され、通商決裂後はそのまま現地に残って同盟通信(共同通信の前身で国営であった)に入社、スマトラのパレンバン行きを命じられ同地で後年の落下傘部隊降下の際の情報収集に当たった。戦争勃発とともに他の在留邦人と共に、オーストラリアの砂漠地帯の収容所に1年抑留された。昭和17年抑留者交換で帰国し中野学校教官に任命されたが、18年再び西部ニューギニアへ「神」機関長として赴任、戦闘に備え、人跡未踏のジャングルを調査した。「西部ニューギニア横断記」は、この時の記録で、裁判の証拠として処刑前に書いたものである。
Oさんは昨年秋、新穂少佐の足跡をたどり、少佐が70余年前踏破したホーランディア(ジャヤプーラ)からサルミまで旅行してきた。そして新穂少佐の処刑地に立ち寄り慰霊の祈りを奉げてきた。Oさんは数年前から西部ニューギニアで英霊の遺骨収集をされているが、近く、また現地へ行き、新穂少佐が踏破した地域を中心に収集に当たる計画だそうだが、国会で審議中の「戦地での遺骨収集法案」は、いったい、どうなっているのだろうか。戦後70年の歳月が流れようとしているのに。
しかし今は、戦争を知るニューギニアの村長も亡くなり、世代交代してしまっていて、案内役としても頼りなく、戦地で戦っていた証言者も高齢で現地に赴くのは難しいそうで、遺骨収集も困難な状態になっているそうです。
国が、本気を出してやるしかないのですが、後回しどころか、やっていないに等しい感じです。
このままにして良い問題ではないはずです。
昭和31年、政府は海外の遺骨収集を目的に建設省(当時)の練習船大成丸を西ニューギニアへも派遣しましたが、短期間の停泊のため僅かなご遺体しか収集できず、簡単な慰霊碑を4か所建ててきただけです。インドネシアでも首都から遠く、辺鄙な地だけに、相手国の州政府との交渉もはかどらず、、いまだに、どのくらい放置されているか不明です。毎年、厚労省も収集団を派遣していますが、本格的なものではなく、民間にゆだねているのが現状です。僕の知り合いで何人か、ボランティアで収集に当たっている人がいますが、彼らとてもう60歳、70歳です。彼らが協力できる間に行うべきえす。新穂少佐の横断地域が、最大の犠牲者が出ている地域です。