東京の中心部に近い北区の上中里駅前の国有地で旧陸軍の高射砲弾が見つかり、昨日、不発弾処理のため自衛隊が出動、近くを通る東北、上越、長野新幹線や京浜東北線など140本の電車が一時ストップ、9万人に影響がでた。戦争が終わって68年も経つのに、なんと人迷惑な話である。
東京に80年も住んでいるのに僕はまだ上中里駅で乗降車したことがない。日本橋から一里の滝野川の一里塚に近い場所にありながら一日の乗降客は7千人にすぎない。戦争中、ここには帝都防衛の高射砲陣地があり、戦後も国有地として利用されてきた影響なのだろう。
戦争末期、都内各地に高射砲陣地があった。わが家近くの碑文谷ダイエイ店裏の雑木林の中にもあった。当時、この辺りは田園地帯でサレジオ教会のへんは田畑と竹林であった。しかし、この陣地のためか5月24日の空襲で付近に焼夷弾が落ち東横線第一師範(現学芸大学)駅の商店街に被害が出ている。
僕の母方の本家は昭和20年3月、五反田から強制疎開で小田急線梅ヶ丘駅近くに引っ越した。当時梅ヶ丘付近も田園地帯で、ここなら空襲も大丈夫だと思ったのだろうが5月の空襲で焼夷弾が落ち、全焼してしまった。やはり、ここにも近くの都立千歳が丘高校の校庭に高射砲陣地があって、これが狙われた”それだま”だったらしい。
夜空にB29の大群が襲来すると、たしかにそれを狙って地上から高射砲の発射音がしていた。しかし、僕はB29に命中したのを見たことがなかった。逆に、今思うと米国は、郊外の小さな高射砲陣地まで所在を把握していたのかもしれない。
東京に80年も住んでいるのに僕はまだ上中里駅で乗降車したことがない。日本橋から一里の滝野川の一里塚に近い場所にありながら一日の乗降客は7千人にすぎない。戦争中、ここには帝都防衛の高射砲陣地があり、戦後も国有地として利用されてきた影響なのだろう。
戦争末期、都内各地に高射砲陣地があった。わが家近くの碑文谷ダイエイ店裏の雑木林の中にもあった。当時、この辺りは田園地帯でサレジオ教会のへんは田畑と竹林であった。しかし、この陣地のためか5月24日の空襲で付近に焼夷弾が落ち東横線第一師範(現学芸大学)駅の商店街に被害が出ている。
僕の母方の本家は昭和20年3月、五反田から強制疎開で小田急線梅ヶ丘駅近くに引っ越した。当時梅ヶ丘付近も田園地帯で、ここなら空襲も大丈夫だと思ったのだろうが5月の空襲で焼夷弾が落ち、全焼してしまった。やはり、ここにも近くの都立千歳が丘高校の校庭に高射砲陣地があって、これが狙われた”それだま”だったらしい。
夜空にB29の大群が襲来すると、たしかにそれを狙って地上から高射砲の発射音がしていた。しかし、僕はB29に命中したのを見たことがなかった。逆に、今思うと米国は、郊外の小さな高射砲陣地まで所在を把握していたのかもしれない。
とくに基地や港の日本の地理は詳細に知れていたそうですから、あっとう的に有利な攻撃だったと思います。
だから余計に腹がたちます。無差別な空襲も勝てばお咎めなしなど許せません。
広島、長崎の原爆、東京大阪など主要都市の無差別空襲、負ければ賊軍です。全くこれには無関係で、当時は日本人だった韓国の新聞が”神の咎め”などという心理が判りません。原爆によって戦争が終わったという欧米の史観に通じるものです。
戦後68年、日本が世界に果たした貢献度は大変なものがあります。それだからこそ、日本が世界で一番好まれる国だったのに、変な”歴史認識”のために4位に落ちたそうです。やはり、国際世論へ発信力が落ちてきた感じがします。
日本側の反撃力の最大の弱点は、レーダー探知機の開発が決定的に遅れていたことではないでしょうか?
日本人の中の自虐史観をもった知識人による発信能力の増大も影響していると思います。
敗戦後、GHQが刷り込んだ影響は実に大きいと思います。すなわち、「第2次世界大戦は、全体主義に染まった悪の枢軸国に対して、連合国による正義の戦争であった。しかも、戦後は、スターリンと毛沢東という共産主義という全体主義国家にあっても、国際連合の常任理事国に属して、核武装は正義にかなう」という思想洗脳のたまものだと思います。