LCC(格安航空券)でアジア各地を旅行している大学生の孫から毎日娘宛てにメールで消息を伝えてくる。すでに出発してから10日経ちクアラルンプール、マラッカ、コタキナバルを旅行、今はバリ島に滞在している。宿泊先は、すべてあらかじめネットで調べて予約した安宿やドミトリー(学生寮)を使っている。こういった貧乏旅行は世界的に流行しているのであろうか、フェイス.ブックには孫がクアラルンプールで知り合ったエジプト人の医学生と一緒に撮った写真が載っていた。
今年は戦争が激化した昭和18年10月、徴兵延期されていた大学の文化系の学生が”学徒出陣”してから70年である。僕は当時中学生であったが、学生服にゲートルを巻き銃を担いだ大学生が、雨の中明治神宮外苑競技場を行進した新聞写真を覚えている。出陣の模様はラジオでも実況放送された。
考えてみると、孫はすでにこの学徒出陣した学生たちと同じ年齢なのだ。出陣した学徒たちの多くは、その後、前橋、豊橋、熊本にあった予備士官学校を経て南方の予備士官学校を卒業、前線に送られた。孫が今回旅をしたマラッカ近くのポート.ディクソンにも、その予備士官学校があった。戦後この士官学校を卒業した戦友が編纂した本「鉄の契り」が僕の手元にあるが、学徒出陣した人のなかには特攻隊として戦死した方、戦後BC級戦犯裁判に連座した方もいる。
孫は多分、過去のこういった事実を知らずに同じマラッカ海峡の夕陽を見たかもしれない。コタキナバルでは温泉を楽しんだ、とメールにあった。ここでも戦争中、反日華僑の反乱で50数人日本人が殺されている。敢えて僕は事前に孫には、こういった過去の事を伝えなかった。現実の平和の時代を自分の目で見て、将来につなげてもらえればよいと思ったからだ。
今年は戦争が激化した昭和18年10月、徴兵延期されていた大学の文化系の学生が”学徒出陣”してから70年である。僕は当時中学生であったが、学生服にゲートルを巻き銃を担いだ大学生が、雨の中明治神宮外苑競技場を行進した新聞写真を覚えている。出陣の模様はラジオでも実況放送された。
考えてみると、孫はすでにこの学徒出陣した学生たちと同じ年齢なのだ。出陣した学徒たちの多くは、その後、前橋、豊橋、熊本にあった予備士官学校を経て南方の予備士官学校を卒業、前線に送られた。孫が今回旅をしたマラッカ近くのポート.ディクソンにも、その予備士官学校があった。戦後この士官学校を卒業した戦友が編纂した本「鉄の契り」が僕の手元にあるが、学徒出陣した人のなかには特攻隊として戦死した方、戦後BC級戦犯裁判に連座した方もいる。
孫は多分、過去のこういった事実を知らずに同じマラッカ海峡の夕陽を見たかもしれない。コタキナバルでは温泉を楽しんだ、とメールにあった。ここでも戦争中、反日華僑の反乱で50数人日本人が殺されている。敢えて僕は事前に孫には、こういった過去の事を伝えなかった。現実の平和の時代を自分の目で見て、将来につなげてもらえればよいと思ったからだ。
学徒出陣の行進は、母の従兄がいたそうです。
あの行進の場面は、何度かテレビで見たそうです。
従兄は、特攻で帰らぬ人になりました。
特攻に出る前か、出た後かわかりませんが、知らせが来たそうです。
○○方面、○○時間出撃と書いてあり、いつ何処から何時に出撃したのか不明だそうです。
そして一緒に小さな白木の箱に、小石3つ、爪、短い頭髪が入っていたそうです。
こんな時代があったのですよね。現代人には想像もつきません。
しかし、平和だからこそ若い子たちには、想像力や心豊かに健全な青春を送って欲しいです。
「軍隊」のことを昔の人は「運隊」といったそうですが、出陣の学徒でもフィリッピンへ向かった方々はほとんど特攻や負け戦で亡くなっているそうです。出陣された学徒もすでに90歳を越えています。考えさせられます。
いわき小名浜の家の草刈りに行き、またもや熱中症に、やっと、どうやらパソコン遊びが出来る程度まで回復したところであります。
お孫さんの旅行記、楽しみにしてます。
想い起こせば、小生の出征は昭和17年8月、満17歳になる前でした。
どうして、こんなガキに重大任務を負わせたのか、未だにワカリマセン。
http://homepage2.nifty.com/bup/bup-5.htm
最初はマカッサル、翌昭和18年にはスラバヤを基地に、北は内地、南は豪北の島々、飛んでました。
終戦間際には、南方で養成し飛べるようになった兵隊を特攻用に鹿屋に運ぶ”特攻輸送作戦”この時は、さすがに運の強さを誇った小生も覚悟を決めましたがぁ・・・。
悪運強く生き延びて、米寿どなり、生き恥を晒しております。
http://homepage2.nifty.com/bup/bup-5.htm
↑に、悪ガキの一端をお見せしてます。
戦闘記録は追って・・・。
病気回復のご挨拶のみ。
今年の夏の暑さは異常だったですね。お大事にして下さい。いつもながら貴重な写真拝見させていただきました。
10年ほど前、メナドの戦跡めぐりに行き旧ラングナン飛行場を見てきました。インドネシア在郷軍人関係の農地に
なり、牛が草を食んでいました。落下傘部隊の堀内隊長の息と3年前お会いした時の話では、メナド市民墓地にあった堀内さんの慰霊碑も向こうの都合で撤去されたと聞きました。
孫はほとんど戦時中のことを知らずに旅行中です。「大正生れ」さんの搭乗していた飛行機の機種は当時なんんと呼ばれていたのですか。ゼロ戦輸送機ですか。都合の良い時御教示ください。
ランゴアンには数十回行ったことが御座います。
零式輸送機です、元は米国原産”DCⅢ型”であります。
搭乗員は4名、機長(操縦)、機関士、航空士(航法・操縦)・通信士
豪北の島々、ニューギニア方面に飛ぶときは、整備兼機銃手が乗ります。
本日、午後は居住集合住宅の敬老会でした。
家内ともども出席、画像は下記BLOGに載せました。
最後の一枚は、敬老会のシメの88歳米寿の7名が壇上へ。
男性は小生のみ、恥ずかしかったです。 (左端が司会者、其の右が小生であります、ハゲ頭を丸出し) ↓
http://bup7.blog37.fc2.com/
喜寿のお祝いおめでとうございます。わが町の老人も大正生まれの男性はいませんね。女性は元気です。
早速、ご返事頂き有難うございます。A-1グライダーの模型造りで育った銃後の少年は、まったく知りませんでした。何故零式なのでしょうか。ますますお元気で。