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インドネシア大使館は品川区東五反田の通称池田山という昔からの高級住宅街の一角にある。明治維新までは、旧岡山池田藩の下屋敷があった場所だ。大正終わりから昭和の初めにかけて開発された。インドネシア大使館の建物は、昭和11年、松坂屋百貨店の16代当主の伊藤鈴三郎が英国からの留学直後建てた鉄筋コンクリート2階、地下1階の広壮な建物である。近くには皇后陛下の実家、正田栄三郎邸もあったが、数年前相続税の関係から壊され、今は区の「ねむの木」公園となっている。
少年時代、五反田の目黒川沿いに住んでいた僕にとって池田山は夏休み、セミやトンボの宝庫であった。ガキ仲間とモチ竿をもって豪邸の庭に忍び込み家人から大目玉をくらったものだ。しかし、今や池田山にはインドネシア大使館と通り一つ隔てた在日タイ大使館の二つしか当時の豪邸は残っていない。タイ大使館は、和歌山の豪商浜口吉右衛門が昭和9年建てたものだ。幸い池田山界隈は戦災を免れた。しかし、戦後の遺産相続税の関係で、正田家のように自治体に物納されて壊されたり、遺族間で細切れに分割されて、かっての豪邸はこの二つの大使館建物だけになってしまった。
明日17日、第68回インドネシア独立式典が、大使公邸の庭で行われる。公邸内はなかなか拝見できるチャンスがないので、許可をえて写真に収めてこようと思っている。
例によって暇つぶしです。
家内と娘は”日帰りバス旅行”とかで千葉方面へ。
お陰様で、パソコン遊びやり放題の良い環境であります。
さて、小生の遊んでいる”メロウ倶楽部”と言うサイトで、数年前の古い書き込みが見られます。
都内、山の手の戦災の状況の書き込みを見つけましたので。
暇つぶしに、宜しかったら、どうぞ。
”表参道が燃えた日(抜粋)-山の手大空襲の体験記”
http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=854&forum=13
さて、猛暑が続いて居ります、皆様、御体調の保全に御留意下さい。
(コナミのプールもお盆休みで、行くとこが無いんですよ)
まったく偶然ですが、昨日老妻と昨年亡くなった義弟の1
周忌に当たり、青山墓地に参詣したばかりです。ご紹介いただいた5月25日の空襲では。表参道から青山にかけて火の海となり、青山墓地に逃げこんだそうです。老妻とその話をしたばかりでした。これが東京での最後の大空襲でした。わが家にも前日の空襲で焼夷弾の破片が落ちてきましたが、幸い無事でした。当時、戦地ではどの程度空襲の被害は伝わっていたのですか。
10日の夜中、大森馬込の高台の二階家で夜中にトイレに起きて、階段のガラス窓から北の方角が真っ赤に燃えてました。
空襲が在ったと言う程度の認識で、スラバヤに帰りました。
昭和18年に入って、マカッサルは、B-24にだいぶやられました。
防空壕に入っていても、やられますので、空襲警報と同時にクルマでマロス方向へ、途中の”岩崎橋”付近の高台で空襲見物をするようになりました。
スラバヤに移動してからは、一度も空襲は受けてません。
ジャワ島は敵さんの標的外だったらしいです。
星港はインドから来ましたが、市街地は殆ど被害は無く、セレターの軍港施設が狙われてました。
敵さんはジャワ島は標的外だったのでしょうね。
西ニューギニアのバボ、カイマナ方面には、2週に一度くらい飛んでましたが、敵機に遭遇する恐れが多く、上空待機、雲の中に入ったり、着陸すると、すぐ兵隊が輸送機をジャングルの中に隠して呉れてました。
敵機に遭遇、落とされた輸送機も多数御座いました。
小生は、たまたま悪運が強かっただけです。
http://66.xmbs.jp/ryuhpms77-152452-ch.php?guid=on
↑の皇族が戦死したときの、マカッサルのマンダイ航空基地の電信室で対空通信のヘッドホーンを被っていたのは、小生でした。
書き切れませんので、追って、お尋ねに応じて書かせて頂きます。
さて、今日はとうとう外出せず、クーラー入れっぱなしで過ごしてしまいました。
家内と娘は、帰途、美味しいお弁当を買ってきて呉れると言ったんですが。
(昼はインスタントラーメンでした)。
3月10日の空襲時、僕は五反田に住んでいてやはり真っ赤の染まった夜空を見ていました。伏見博英海軍大尉の戦死については、初めて知りました。同じように当時は戦闘だけでなく、事故でも亡くなっておられる方も多かったのでしょうね。
17日五反田のインドネシア大使館の独立記念日に参加しましたが、従軍世代はついに一人も参加者はいませんでした。