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その一人は独立宣言起草に当たった西嶋重忠氏(海軍武官府嘱託)で、独立前後のことは著書「インドネシア革命」(昭和50年新人物往来社)に詳しい。もう一人は当時、陸軍第16軍政監部の軍政官であった斉藤鎮男氏(戦後インドネシア大使)で、やはり独立時について著書「私の軍政記」(日本インドネシア協会昭和52年)で触れられている。僕は1966年、斉藤氏が大使だった時代ジャカルタに勤務、北スマトラ石油会社の常務をしていた西嶋氏とも面識があった。
西嶋氏はインドネシア独立時、前田精海軍武官府司令官の下で、実際独立宣言を起草するなど推進派であったが、斉藤氏は軍政官として敗戦後連合軍との関係を配慮して独立に対しては慎重であった。西嶋氏の著書によると、事前の陸海軍の話し合いの席上、斉藤氏は海軍からの独立容認要請に対して”君らのやっていることは国賊だ”とまで言い切った。この発言に対して西嶋氏はポッケットからピストルを持ち出して撃とうとまで思ったと書いている。
インドネシアの独立は17日午前10時(日本時間)スカルノ邸前庭で行われたが、危惧された日本側(陸軍)からの妨害はまったくなく、紅白の国旗が高らかに掲揚され、国家「インドネシア.ラヤ」が高らかに歌われた。陸軍も独立を消極的ながら容認した結果となった。(写真は、独立時の模様を再現した形で催された東京の式典)
16世紀以来数百年にわたり、オランダを主体に、西欧列強による圧政、暴行拷問虐殺、強制栽培搾取に苦しんできたインドネシアの植民地独立に、結果として、日本が役に立ったのは、つくづくよかったと思います。オランダは、19世紀だけでも蘭領東インドより累計で数億グルデンもの純益をあげて、本国鉄道や公共事業に活用したにもかかわらず、大東亜戦争後のインドネシア独立に際して、数百年にもわたる植民地侵略の謝罪もしないし、賠償金も払っていない。
インドネシア独立については南方軍司令部で容認済で独立の日程まで決まっていました。そこへ突然の敗戦です。インドネシア側は、連合軍の再上陸まえに、しかも日本とは関係なく独立宣言しようとしていました。前田精・海軍武官は戦前註バタビア武官や註オランダ武官をしたことがある専門家で、インドネシア独立にたいして”愛情”と情熱の持ち主だったのでしょう。陰で支援しながら表面に出るのは意識的に避けています。これに対して陸軍は、ポツダム宣言を受諾し、すでに降伏文書に調印している事態では、海軍側の申し出を素直に受けられなかったと思います。結局、独立宣言に対してなにも反対する動きはありませんでした。それでよかったのではないかと思います。多分、僕が斉藤さんの立場にあったら反対はしただろうと思います。インドネシアの教科書には前田閣下の写真が載っているそうです。