中部ジャワ(インドネシア)テマングン(Temanggun)の日本統治下の義勇軍だったバンバン.プルノモさんから伊豆大島の災害と福岡市の整形外科病院の事故について、お見舞いのメールが届いた。ジャワのこんな小さな町にまで、日本のニュースが伝えれているのに驚く一方で「大正生まれさん」(1926年)バンバンさんの変わらぬ日本への関心の強さに敬服した。
小ブログにコメントを頂戴しているハンドル.ネーム「大正生まれ」さんも大正14年(1925年)生まれで、今年米寿を迎えられたがお元気だ。コメンとを通じて知ったのだが「大正生まれさん」は戦争中大変な体験をされている。昭和17年,満17歳の誕生日を待たずに入隊した。多分海軍の通信学校だと思うが、卒業後南方基地に派遣され昭和21年復員するまでの4年間、零戦輸送機(DC型の改造機)の搭乗員として南の空を飛び続けた。高度3000㍍の空を西ニューギニアのバオのジャングルから、スラバヤ、マカッサルまで飛行した。敗戦間際には、南方基地で訓練された特攻隊員を内地の基地にまで運ぶ飛行にも従事した。
もう一人台湾の林大正さんも、名前からも判るように日本統治下の大正時代に生まれた方だ。戦争中は近衛第四歩兵連隊の兵士として、スマトラのアチェに駐屯、戦後台湾に復員後は、昭和22年2月28日の事件(中国本土から来た軍隊による台湾人虐殺事件)に巻き込まれ、山中ににげて九死に一生の体験をされている。
三人の「大正生まれさんは、昭和1ケタ生まれの僕よりはずーっと元気である。インドネシアのバンバンさんも戦後の独立戦争を体験している。三人とも、あの時代を生きてきた強運の持ち主だ。いつまでもお元気に活躍してください。
小ブログにコメントを頂戴しているハンドル.ネーム「大正生まれ」さんも大正14年(1925年)生まれで、今年米寿を迎えられたがお元気だ。コメンとを通じて知ったのだが「大正生まれさん」は戦争中大変な体験をされている。昭和17年,満17歳の誕生日を待たずに入隊した。多分海軍の通信学校だと思うが、卒業後南方基地に派遣され昭和21年復員するまでの4年間、零戦輸送機(DC型の改造機)の搭乗員として南の空を飛び続けた。高度3000㍍の空を西ニューギニアのバオのジャングルから、スラバヤ、マカッサルまで飛行した。敗戦間際には、南方基地で訓練された特攻隊員を内地の基地にまで運ぶ飛行にも従事した。
もう一人台湾の林大正さんも、名前からも判るように日本統治下の大正時代に生まれた方だ。戦争中は近衛第四歩兵連隊の兵士として、スマトラのアチェに駐屯、戦後台湾に復員後は、昭和22年2月28日の事件(中国本土から来た軍隊による台湾人虐殺事件)に巻き込まれ、山中ににげて九死に一生の体験をされている。
三人の「大正生まれさんは、昭和1ケタ生まれの僕よりはずーっと元気である。インドネシアのバンバンさんも戦後の独立戦争を体験している。三人とも、あの時代を生きてきた強運の持ち主だ。いつまでもお元気に活躍してください。
”大正生まれ”の御懇切なご紹介を有難う御座います。
この場では、書き尽せない”想い出”が数々御座います。
一部を、下記サイトでご覧頂けますので、おヒマでしたら、ドウゾ
俺の戦争 BUP
http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=975&forum=13
"BUP"は小生のハンドルであります。
”Bintang Ujung Pandang"をもじったつもりですが、同時に小生個人のコールサインの一部でもあります。
マカッサル時代の思い出の数々を書いたつもりでしたが、肝心の戦闘記録が抜けていたようであります。
御入院前の貴重なお時間を費やせ、お詫び申し上げます。
小生も、来週月曜日に、通院、結果待ちでビクビクした居ります。
本欄、ご購読の皆様、毎度くだらない書き込みでご迷惑をお掛けしていることをお詫び申し上げます。
僅か3,4歳の違いなのに皆さん、想像を超える体験の持ち主なのに驚いています。ぜひ、若い世代にあのような時代を生きてきた世代の先輩方を紹介したかったのです。プライバシーの関係とと僕のPC技術の未熟のため、こんな形の紹介になったころをお詫びします。
歴戦の勇士です。びくびく,しないでください。(笑い)
大正や昭和という時代は、どんなものだったのでしょうか?私が知っている昭和50年代から現在までは、実にのっぺりしていて、生きる実感は感じにくい時代になったように思います。それが平和というものなのかもしれませんが。デジタル化は進んでいますが、芸術や文化の発展は衰退しているようにも感じます。ニッチというか、どんどん個人に特化していて、時代としての文化の華々しさはありません。大正から見てきた方たちは、平成という時代をどう見るのでしょうか?
70年前の学徒出陣の記念碑を残すか残さないかで問題になっているそうですが、一言、しかるべき人が会場改造後も残すといえばよいのです。”花も蕾も若桜、国の大事にに殉ずるは”(学徒出陣の歌)で行進した学徒も大正生まれの方々です。何故、保存しないのか理解に苦しみます。