「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

”ラスト.サムライ” インドネシア義勇軍兵士の死

2018-06-08 05:21:53 | 2012・1・1

インドネシアの中部ジャワの山間の町、テマングン(Temanggung)から友人のバンバン.プルノモさん(93)=写真の訃報が届いた。バンバン.プルノモさんは先の大東亜戦戦争中、旧日本軍がインドネシアに創設した「郷土防衛義勇軍」(PETA)の一員だった方で、実兄のスゲンさんはテマングンの大団長で、戦後はインドネシア国軍参謀長、60年代には駐日大使も勤められた名士である。

僕は2011年と12年の二回、このブログを通じて知り合った友人の紹介でバンバン.プルノモさんをテマングンに訪ねている。当時、バンバンさんはテマングンの町外れで「Yuko terakoya 」(友好寺子屋)という日本語塾を開いていた。(写真)バンバンさんは特に日本語を勉強したわけではなく、義勇軍時代のいわば独学である。戦後バンバンさんはインドネシア国軍の中佐までなったが、1965年9月30日のクーデター未遂事件で、スカルノ派と目され逮捕されている。 

大の親日派で、敗戦時テマングンに駐屯していた第48師団の磨(みがき)部隊が 記念碑として建てた「万邦団結」の石碑を市内の丘の上に屋根付き小屋の中に再建したりした。バンバンさんは自分は”ラスト.サムライ”だと名乗り、60年代の古い日本製の自家用車には”ラスト.サムライ”のラベルを張ったりしていた。昨年ごろから糖尿病により失明してしまったが、見舞いに訪ねた日本人の友人に対して日本の軍歌のカットを所望、合唱したが一番好んで歌ったのは「海征かば」の鎮魂歌であったという。


病床のバンバンさんを最後まで看取り「海征かば」を共に歌った、日本人の友人Sさんから現地の盛大の葬儀の写真が送られてきたが、僕のPC技術では紹介できないのは残念である。合掌

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