沖縄から本土への学童疎開船「対馬丸」が昭和19年8月22日、鹿児島県悪石島沖で、米海軍潜水艦から魚雷攻撃を受けて沈没、乗っていた学童800人のうち715人が死亡した。この悲劇は戦時中のため秘密にされていたが、戦後明らかにされた。今年は事件から70年目に当たるが、当時の児童と同世代の天皇、皇后両陛下が6月に沖縄を訪問、当時に想いをはせ,犠牲者の慰霊にあたる。
敗戦時、天皇陛下は国民学校(小学校)6年生で学習院初等科の学友と一緒に栃木県奥日光のホテルに集団疎開していた。僕のかっての同僚の一人(故人)が陛下と同室だったので、よく当時の苦労話を聞いたことがあった。一方、皇后陛下は1年下の5年生であったが、縁故疎開で、実家の正田家のある群馬県館林や、別荘のあった軽井沢の国民学校を転々と疎開された。
昭和19年8月、サイパン陥落後の戦況の悪化に伴い、政府は東京、大阪、名古屋、横浜など全国の13大都市の国民学校の3年―6年生に対し、都会から疎開するよう決定した。田舎に縁故のある者は、それを頼り、ないものは学校全体が集団疎開した。(1-2年生も20年3月、追加された)この時の決定で、沖縄でも本島は鹿児島県など九州へ、石垣島など八重山地区は、当時日本統治下であった台湾へ疎開した。
尖閣諸島の魚釣島には、石垣島から台湾に向けての24回目の疎開者の遭難慰霊碑がある。20年7月1日、240人の疎開者を乗せた焼玉エンジンの小型船2隻が、米軍の銃撃を受けて、ほとんどが死亡、助かった人は魚釣島に逃避したが、当時島は無人島で食糧がなく、戦争が終わった直後、救助された時には、疎開者の半分以上が病死したという。日本最南端の波照間島では、西表島へ強制疎開されたが、学童をはじめ半数以上がマラリアで死亡している。過酷だったあの時代から70年である。ほぼ同世代の両陛下のお気持ちはよく解かる。
敗戦時、天皇陛下は国民学校(小学校)6年生で学習院初等科の学友と一緒に栃木県奥日光のホテルに集団疎開していた。僕のかっての同僚の一人(故人)が陛下と同室だったので、よく当時の苦労話を聞いたことがあった。一方、皇后陛下は1年下の5年生であったが、縁故疎開で、実家の正田家のある群馬県館林や、別荘のあった軽井沢の国民学校を転々と疎開された。
昭和19年8月、サイパン陥落後の戦況の悪化に伴い、政府は東京、大阪、名古屋、横浜など全国の13大都市の国民学校の3年―6年生に対し、都会から疎開するよう決定した。田舎に縁故のある者は、それを頼り、ないものは学校全体が集団疎開した。(1-2年生も20年3月、追加された)この時の決定で、沖縄でも本島は鹿児島県など九州へ、石垣島など八重山地区は、当時日本統治下であった台湾へ疎開した。
尖閣諸島の魚釣島には、石垣島から台湾に向けての24回目の疎開者の遭難慰霊碑がある。20年7月1日、240人の疎開者を乗せた焼玉エンジンの小型船2隻が、米軍の銃撃を受けて、ほとんどが死亡、助かった人は魚釣島に逃避したが、当時島は無人島で食糧がなく、戦争が終わった直後、救助された時には、疎開者の半分以上が病死したという。日本最南端の波照間島では、西表島へ強制疎開されたが、学童をはじめ半数以上がマラリアで死亡している。過酷だったあの時代から70年である。ほぼ同世代の両陛下のお気持ちはよく解かる。
戦中の米国の様子をテレビで見た事がありますが、戦争をしているような空気がなく、日本との違いを感じました。
左翼が台頭し始めた沖縄ですから、陛下の安全が気になるところです。しかし、陛下はどのような場所になっても沖縄には行かれるでしょうね。
僕より3年下の学級から集団疎開に行っています。当時東京でも区部以外は、家も少なく安全とみられ、郡部に疎開した学校もありましたが、疎開先で機銃掃射にあい犠牲になった子供もいます(八王子)戦争とはいえ、めちゃくちゃの時代でした。両陛下は、同じ世代ですから、ひとしお、感じ方も違うでしょうね。
疎開児童世代も皆後期老齢者です。